異なる2人の戦時下の歩み
〈洗面器のなかの/さびしい音よ。/
くれてゆく岬(タンジョン)の/雨の停泊(とまり)。/
ゆれて、/傾いて、/疲れたこころに/
いつまでもはなれぬひびきよ/
人の生のつづく限り/耳よ。おぬしは聴くべし。/
洗面器のなかの/音のさびしさを。/〉
(『洗面器』)
光晴がバトパハの日本人倶楽部に滞在した32(昭和7)年のはじめ、中国大陸では第一次上海事変が起き、東北部では日本の傀儡国家の満州国が生まれている。
ニッパ椰子が生い茂る河岸を褐色のよどんだ流れが洗い、午睡に静まるマレーの小邑にも、ゴム農園や鉱山開発の日本人が行き交っている。「アジアはひとつ」のかけ声のもと、欧米との対決へ向かう日本の空気は、この半島の片隅の鄙にまで届くのである。
合歓木の木陰でか細くも逞しく生きる老若の哀歓を、光晴は『洗面器』というこの土地で日常の暮らしに欠かせないうつわに映して謳った。
戦時体制へ向かって言論への統制が強まる37年に発表された『鮫』も、同じように光晴が欧州からの帰途、マレー半島に滞在中に書かれた。長い旅のはてに南洋の辺境で見出した欧米列強による暴力的な世界秩序と、それに対する極東の天皇制国家日本の無謀なあらがいを、南海の凶暴な「鮫」のイメージのなかに暴いた慟哭と反戦の長詩である。
〈軍艦とは、単に壮観をつくるための、一つの園芸に過ぎないのか/
それは平和の防衛だというのか。/
粛々として威儀を正しているだけか。/
否、否、否、彼らは丁度、お腹がいっぱいというにすぎないのだ。/
奴らの腹は不消化な人間の死骸で満腹だのに、/
ふてぶてしく腹をかえし、細い眼を、片方つぶってこちらへ合図する〉
(『鮫』)
窮乏と虚栄にまみれたパリをあとにした金子光晴は、日本へ帰国したのち遅れて戻った妻の三千代と何度目かの再会を果たし、長く離ればなれだった長男の乾と合流して久々に親子3人の暮らしをとりもどした。戦時下に反戦抵抗詩集の『鮫』を出版して不遇を託った詩人はのちに長男のもとに届いた徴兵令状に対して「喘息」と偽った診断書を医師に書かせて、召集を逃れさせた。詩人は「非国民」を貫いたのである。
〈エコール・ド・パリの寵児〉という栄光を背負った藤田嗣治が日本へ帰国したのちの歩みは、これとは対照的である。
世界恐慌でパリに翳りが広がった30年末、新しい妻のマドレーヌを伴って米国、南米、メキシコなどおよそ3年にわたって旅をしたあと、祖国の土を踏んだ。
戦時体制へ向かう日本の険しい空気の下で、「猫と裸婦の画家」は38(昭和13)年、海軍省の委嘱を受けて中国大陸で漢口攻略作戦に従軍、戦争協力画として「南昌新飛行場焼討」を描いた。売り物だったオカッパ頭を刈りあげて坊主頭になり、軍装で戦地を歩いた。帝国美術院会員となった41年には第二回聖戦美術展に出品するなど、戦争画の指導者として〈エコール・ド・パリの寵児〉はその姿も作品も塗り替えられた。
〈絵画が直接お国に役立つと言うことは何と果報なことであろう。国民を慰めようとする絵画と国民を強くする絵画とはその差も大なるものがある。未だに世間では戦争画を芸術でないといい、別個のものとみなしている輩もないではない。戦争画において立派な芸術品を作り出すことは不可能なことでなく、また吾らは努力して作り出さなければならぬ〉〈『戦争画に就いて』〉
敗戦の二年前、このように述べた藤田はあの『アッツ島玉砕』を描き、戦時下の国民から喝采を浴びたのち、終戦を迎えた。戦後、あらゆる分野で戦争責任が追及される中、藤田はこうした戦争翼賛画への指導的役割を批判されて責任を問われた。祖国を追われるように画家は妻とともにフランスへ移住し、国籍を移して異郷で生涯を終えたことは、広く知られるところである。
「寵児」と「蕩児」がいたパリの風景は、それぞれに甘く、そして苦い。
