「どうしているのか。少しだけでもいいから情報がほしい」
一族の男性3人が農作業中にイスラエル軍に連れ去られたというレバノン人一家が、涙をこらえながら語った。レバノンでは2024年の9月から少なくとも30人がイスラエル軍にレバノン領土で拘束され、行方がわからないままとなっている。
6月にイランとアメリカの間で結ばれた停戦合意は、1カ月も経たないうちに破綻状態だ。現在もイスラエル軍は、レバノンの一部を占領し続けており、7月21日からイスラエル軍の一部撤退が開始されているが、情勢は依然として不透明だ。レバノン情勢は、今後の中東情勢を映し出す縮図でもある。
レバノンでは何が起きているのか。多くのレバノン人がイスラエル軍に憤りを感じている。しかし、イスラエル軍が攻撃対象としているヒズボラやその背後にいるイランが、レバノン人にとっての正義かといえば、話はそう簡単ではない。
5月下旬、レバノン南部のある村を訪ねると、イスラエル軍とヒズボラの間で苦しむ人々の姿があった。
誘拐された3人のレバノン人
レバノン南部の小さな村、カファルシュバ村のハルタ地区。
オリーブ畑が広がり、農業を生業として暮らす人々が多い緑豊かな地域だ。イスラエルとの国境からわずか2キロほどの距離にあるが、他の南部の村と異なり、現在までのところ大規模な破壊は免れている。
その理由の一つは、この村では、レバノンの政治・武装組織「ヒズボラ」の支持基盤であるイスラム教シーア派ではなく、スンニ派の住民が暮らしていることにある。
一方で、この村は別の深刻な問題に直面していた。
村の住民3人が5月19日にイスラエル軍に拘束され、その後の消息がつかめなくなっているのだ。取材時点で、すでに1週間が経過していた。
行方不明となっているのは、アティーフ家のシャウキ(46)、アハマド(45)、アリ(27)の3兄弟である。
経緯について、シャウキの妻が話す。
「日雇いの農作業のため、朝8時30分に家から出かけた。午後1時ごろ、イスラエル軍に連れ去られたという知らせが入った。詳しいことはわからない」
彼らはオリーブ畑の雑草を取り除く日雇いの仕事をしていた。そこへイスラエル軍が現れ、11人が拘束されたという。その後、ほかの8人はすぐに釈放されたが、この3人だけが拘束されたままになっている。
釈放された8人は、シリア人労働者とキリスト教徒だった。一方、拘束された3人はイスラム教スンニ派だった。
レバノン南部は、先に述べたようにヒズボラの支持基盤であるシーア派の住民が多い地域だが、スンニ派やキリスト教各派、ドルーズ派など、さまざまな宗教・宗派の人々も隣り合って暮らしている。
妻たちに、イスラエル軍の人数や装備などの詳細を尋ねたが、彼らも詳しいことはわからないという。
「釈放された8人は遠くへ行ってしまい、私たちには彼らに連絡して話を聞く手段がない」
釈放された人々は、イスラエル軍について話せば、何をされるかわからないと考え、関わりを避けているのかもしれない。
今回の件は人質事件ではないため、イスラエル側から家族に連絡や要求があるわけではない。手がかりは何一つなく、一家の働き手であり、大切な家族を奪われたアティーフ家の人々だけが、何もわからないまま取り残されているのだ。
彼らが捕まった理由とは
なぜ、この3人は拘束されたのか。母親のナハワンドさんはこう語る。
「わからない。その2日前に、拘束された場所の近くでヒズボラが活動していたと聞いた」
この事件の数日前、彼らが捕えられた場所の近くでヒズボラがロケットランチャーを設置しようとした。その場所はレバノン軍の倉庫の隣でもあった。最終的には問題を嫌う住民によって、設置は阻止されたという。
しかし、その日の夜、その場所はイスラエル軍によって攻撃された。一帯は立ち入り制限区域とされた。
その周辺にはオリーブ畑が広がっており、地元の人々にとっては重要な生計の場でもあった。
「許可を得てからその地域には普段入っていた。しかし、その日は許可申請に対する返事がなかった。拘束された人たちは、それを知らずに行った」
この「許可」とは、イスラエル軍による通行許可である。
もともとは、イスラエル、レバノン、アメリカ、フランスの代表、そして国連レバノン暫定駐留軍(UNIFIL)を含む委員会で、「メカニズム」と呼ばれ、2024年にイスラエル軍とヒズボラが衝突した際に停戦などを監視する仕組みとして、許可などを与える。
たとえば、イスラエル軍の攻撃の激しい地域にレバノンの救急部隊が人命救助や住民の避難のために入りたいとなった際、この枠組みを通じてイスラエル軍の事前承認を得る。
イスラエル軍は建前として、「標的はヒズボラであり、一般市民を狙うものではない」と説明している。そのため、実際には多くの民間人が攻撃されているものの、場合によっては救助の許可が与えられることもある。
メカニズムによる許可は、このような警戒区域の立ち入りについても機能していた。
しかし今回、雇い主は、許可が出ていないことを労働者たちに伝えていなかったという。農作業の季節でもあり、戦争によって遅れていた作業を少しでも取り戻したいという雇い主の焦りもあったのだろう。
