イラクで観光旅行してみたら 

2020年5月16日

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伊藤めぐみ (いとう・めぐみ)

中東在住ジャーナリスト

ホームページhttps://itomegumi1483.wixsite.com/website
1985年生まれ。紛争、思想、歴史をテーマに取材。2002年中米ホンジュラス共和国に1年間留学。中部大学卒業国際関係学部、東京大学総合文化研究科相関社会科学修士課程で社会思想を専攻。
2011年よりテレビ番組制作会社ホームルームに入社し、イラク戦争、ベトナム戦争、人道支援、障害者、町工場などをテーマにドキュメンタリーを制作。2018年よりフリーランス。
2013年にドキュメンタリー映画『ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件…そして』を監督。第1回山本美香記念国際ジャーナリスト賞、第十四回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞を受賞。イランの映画祭、Cinema Vérité ; Iran International Documentary Film Festival、アメリカ・ロサンゼルスの映画祭 LA Eiga Fest でも上映。NHK BS1『命の巨大倉庫』がATP賞奨励賞を受賞。ベトナム戦争についてのルポルタージュが潮ノンフィクション賞にノミネート。
現在、イラククルド人自治区のクルディスタン・ハウレル大学修士課程に留学中。

 砂漠の国と思っていたイラクに巨大な湿原があった? 数日のツアーの中で富める人、貧しい人、スンニ派地域の人、シーア派地域の人、クルド人と様々な人たちが交差する。IS(いわゆるイスラム国)支配後のイラクの日常や現地の人々との交流を綴った旅行記。

イラクの湿原、長い木の棒で舵を取る

モスルからの電話

 ナシリーヤでの観光初日を終え、ホテルの部屋に戻ってしばし一息する。

 携帯を手にするとメッセンジャーで電話がかかって来ていたのに気づいた。イラク北部モスルの消防士の友人、サラーム(仮名)からだった。

 彼の住むモスルはかつてイスラム国に3年間支配された街だ。2017年の夏、解放直後のモスルを取材した際に知り合った。当時、サラームをはじめモスルの消防士たちは空爆などで瓦礫の下敷きになった人や、遺体を救出する仕事を手弁当でしていた。消防士自身も家族を失ったりした中で、イスラム国の仕掛け爆弾や残党が残る前線近くまで行き命がけで救出活動をしていた。

 戦闘の悲惨さが大前提としてあるが、一方で人々が自分たちの街のために懸命に働くという強さも取材では目にした。

 取材後、サラームは恋愛話から最新のモスルの情勢までいろんな話してきかせてくれる友人となった。彼はたまに暇を持て余して電話をしてくる。久しぶりの電話が嬉しくて、折り返す。

 「久しぶり? 元気〜?」

 「元気じゃないよ、足折ったかもしれない!」

 いつもながら即座に話題を提供してくれる。

 「え? なんで? 何したの?」

 「バレーボールしていたらさ、挫いちゃって。イスラム国が来た時以来、初めてバレーしたからさ」

 彼にとっては解放から2年近く経っても、イスラム国の存在感はそう簡単には消え去らないのだ。イスラム国がいた当時と今、常に比較の対象になる。

 サラームは最近のモスル情勢も教えてくれた。自爆犯が出たらしい。

 「イスラム国の関係者はまだいるんだ。でもモスルの人はもう騙されない。イスラム国が成功することはない。それよりも今の一番の問題はシーア派の軍事組織ハッシェド・シャービーだよ」

 彼が「騙されない」と言ったのは、イスラム国がモスルにはじめてやってきた時、イスラム国はイラク政府の支配から解放してくれる救世主だと勘違いしたモスルの人々も多かったからだ。モスルの人たちは長年、シーア派中心のイラク政府の支配にずっと苦しんでいたことが背景にある。

 そして彼が今、懸念するのはハッシェド・シャービー。イスラム国掃討作戦に貢献した一方で、シーア派が中心のこの部隊は、スンニ派の住民との間で軋轢を生んでいる。

 それにしても、なんだかとても不思議な気分になる。

 シーア派多数派地域にいて、今、スンニ派地域であるモスルの友達と話している。私はイラク南部滞在中にシーア派への偏見が少しずつ減り、イマーム・アリーの旗を見ても驚かず、ハッシェド・シャービーの人気を実感し始めていた。その頃に、そのハシェド・シャービーが嫌いなスンニ派地域の友人から電話がかかってくる。

 いうべきかいわぬべきか迷った。でも隠し事をするのは嫌だったし、彼と話したかった。

 「あのね、いま、ナシリーヤにいるんだ」

 「え? うそでしょ」

 「本当だよ」

 「何しているの?」

 観光とはとても言えなかった。

 「南部には行ったことがなかったから、いろいろ知るために」

 サラームはそれ以上、詳細を聞いてこなかった。

 以前、サラームにこんなことを言われたことがあった。

 「羨ましいよ。僕はモスルとアルビルとドホークとバグダッドしかしらない。いろいろ海外にいける君が羨ましいよ」

 仲良くなって自分の状況を伝えれば伝えるほど、自分の存在が相手を不快にしているのを感じる。その話をした後、しばらく電話がかかってこなかった。

 「クルド人自治区に戻ったら連絡してね」

 優しいサラームは、何か言葉をつなぐためにそう言った。

午前3時の朝食

 翌日は早朝からの移動だった。午前3時に朝食をとって、4時にはホテルを出て次の目的地、湿原に向かうことになっていた。

 湿原は今回の旅行の一番の楽しみの1つだった。私の大好きなノンフィクション作家の高野秀行さんが最近、湿原に関するルポを雑誌に書いていると知って俄然行きなくなってしまったからだ。

 砂漠の国をイメージしてしまうイラクに湿原があるというのがまず驚きだ。しかもサダム・フセインが、この湿原が反体制派の拠点になっているとして、湿原の水を堰き止めてしまったという歴史にもまた驚く。10年以上も干上がったままだったが、最近では元の自然を取り戻しはじめているという。

 ワクワクしながら朝食を食べる私の横で、バグダッド大学の年の差・学生コンビは昨日の覇気はどこへやら、眠気のあまり能面になっている。大丈夫かと尋ねると、

 「あー、昨日の夜はホテルの部屋じゃなくて、バスで寝たからよく眠れなかったんだ…」

 なるほど、彼らは音楽でツアーを盛り上げるための演奏コンビで、半分スタッフ的な立場だ。ツアー責任者のアリ・マフズミがホテル代をケチるためにバスの中で寝かせたようだった。

 予定通り4時に出発。バスでの移動中、窓から暗闇の中に目をこらすと道路脇に小さな池のようなものが点在しているのが見えた。あちらこちらに池や川のようなものが見える。南部は水だらけなのだ。

イラク南部の道路沿い

 真っ赤な小さな太陽が地平線から昇るのを眺め、2時間弱の移動で着いたのは川のほとりのような場所だった。

 「これから3時間くらいボートに乗りっぱなしらしいよ」

 近くにいた人に予定を聞くと、流暢な英語で答えてくれた。年は私と変わらないくらいの女の人。聞くと、イギリスの大学院で防火のための建築を勉強したらしい。耐火のための壁や、あるいは火事が広がりにくい建築の設計なんかを考える学問だという。

 「そんな専門があるんですね!」というと、

 「珍しいでしょ」とちょっと嬉しそうだった。

 私もクルド自治区の大学院で勉強していると言うと、一緒にツアーに参加している友人がクルド人だと教えてくれた。彼女が現れたところで、

 「ジョニー・バシー? (=元気?)」とクルド語で挨拶をしてみる。

 「…。(ニコッ)」

 若干、笑っただけで特に反応はなかった。あれ、発音が悪かったのか、クルド語を知らなかったのか、あるいはクルド人だとわかるようなことをしてほしくなかったのか…。

 同時に胸がチクリとしたのは、昨日、他のツアー参加者とおしゃべりしている際に、つい調子にのって「クルド人はちょっとシャイな感じがする。バグダッドの人の方がフレンドリーだ」などと、普段のクルド自治区での愚痴をこぼしてしまったのだ。

 その時、まわりには誰もいなかったけれど、クルド人の彼女が聞いていたらどんな気持ちになるだろう。クルド人はバグダッドにもたくさん住んでいるはずだ。

 クルド人が聞いていると知らずに語る「クルド人批評」が、陰口のようになり、彼らの抱く不信感を高めているのではないかと反省する。

水面に現れたアスファルトの道

船頭さんの待つ船に数人に分かれて乗り込む

 細長い木のボートはエンジンを唸らせながら走り出した。昔はエンジンもなかったのだろうが、今はひとっ飛びだ。水しぶきが気持ちいい。最初は川を遡り、次第に葦に囲まれた水だらけの一帯に入り込んだ。葦の小さな茂みが現れたり、なくなったり。船頭さんはきっとそこに道なんてものをみているのかもしれない。

 ここはかつて、シーア派反体制勢力が隠れて武器を運んだり、逃げ込んだりしていた場所だ。1980年から1988年のイラン・イラク戦争ではここで戦いが行われ、また1991年にシーア派の勢力がここを拠点に武装蜂起を行おうとした。

 これを弾圧するためサダム・フセインは湿原の水を堰き止めるという手をとった。なんという奇策というか、大胆な方法。戦争では何でもありなのか。1970年代には2万平方キロ、イラクの面積の17%を占めていたが、一時は760平方キロにまで減少し、豊かな湿原は喪失してしまった。

 それがサダム政権崩壊以降、水が戻され、時間をかけて再び生命溢れる土地を取り戻したのだ。

広大な湿原をボートで横切る
葦を運ぶ人

 1時間近く船を走らせたどり着いたのは水面に突如として現れた細長いアルファルトの地面だった。そのアスファルトの上に我々ツアー客は上陸した。

 「これはかつて道路だったんだよ」

 同じ船に乗っていた元兵士で英語を学ぶ大学生ターリクが教えてくれた。

 アスファルトの地面は幅2〜3メートル、長さ数十メートルほどの道となって続いている。途中には柵で囲った牛を集めておく場所がある。あとの部分は水中に隠れていた。

突然湿原に現れるアスファルトの道

 地元に住んでいる男性アハマドさんがガイド役として話すのを、先ほどの防災建築を勉強しているイギリス大学院留学の女性が通訳してくれた。

 「サダムはまずここに流れる水を、別の運河をつくって水が届かないようにして干上がらせたそう。このアスファルトはかつての道路で、サダムがアマラという街とナシリーヤを結ぶために作ったもの。軍用車両も走れるようにして、それでシーア派の武装勢力を捕まえていったんだって」

 現在も、トルコやイランが上流に多くのダムを作ったため水量が減るなど問題はあるようだ。今年はたまたま大雨が降ったので湿地は豊かに見えたが、実際は塩分の濃度が上がって飲料水や農業に悪影響が出ているという。

 他の観光客にとっても案内してくれたアハマドさんの話は新鮮だったのだろう。最初の案内が終わった後も何人かが質問を続けている。

 「ここの人たちの仕事は水牛を飼ったり、葦を売ったりすることだね。サダムに水をせき止められて、干上がった時は、サマラとか他の場所に牛を連れて移り住んだり、バグダッドに引っ越したりとかしていたんだよ」

 今は450家族(1家族5〜10人)住んでいるが、学校に行っているのは2人だけ。アマハドさん自身は湿地出身で、当時、12歳でバグダッドに移り住んだそうだ。今は湿地には暮らしておらず、陸地の方に住んでいるという。彼のような教育を受けた人が湿地案内を買って出ているという。

 「オーストラリア人とか韓国人とかいろんな外国人も来るよ。この前は日本人がきて、小さなご飯のボールみたいなのを作ってくれたよ。普通、我々は誰かが来たら大皿でもてなすけど、あのご飯は小さかったね!」

 そう、高野秀行氏とも会っていたらしい。残念ながら、おにぎりの「心」はやや屈折して伝わったようだった。

 ここに水が届かなかったのは12年間。その後、今の姿に戻ったなんてすごすぎる。生物も蘇った(もちろん、絶滅してしまった生き物もいる)。しかも、人間はかつて自分たちを弾圧するために作られた道路を今では牛の小屋や人間の住む家を作ったり、フルに活用している。人間の底力だろうか。

牛もなんだこいつらという感じで観光客を見ていた

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