2026年9月20日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2026年9月20日

 山崎の戦いで高山右近・中川清秀・池田恒興らが秀吉の到着を待たず、勇躍して明智光秀軍に襲いかかった背景には、生野銀山の銀に支えられた羽柴兄弟!の経済力があった。

明智光秀(中央)を討つことができた背景にあったものとは(NHKホームページより)

 光秀とて丹波一国と近江坂本他で40万石以上の身代ではあったが、その中に含まれていた比叡山延暦寺の金融収入は11年前の織田信長による焼き討ちで停止状態となり、延暦寺自体の再興活動もこの頃からようやく始まるタイミングで、銀山の様にリアルタイムでザクザク税収が入って来る様な力感はまるで無い。

 前途有望な銀山から掘り出される銀の力がリスクを減少させて商人たちも秀吉支持に傾く中、先に明智軍との戦端を開いてその忠誠心を示しておけば、戦後の論功行賞で有利になる。秀吉の戦力で勝つのではなく、自分たちが秀吉に勝利させるのだ!

 そう考えたからこそ、戦後秀吉が「自分の力で勝った」と宣伝しても彼らが怒らなかったのだろう。秀吉に花を持たせて実利を取るためだったとも言える。

 もちろん、秀吉と秀長は漫然と生野銀山からの実入りを待っていた訳ではない。

 「飾磨津(しかまつ)に鍬400挺が有るはずだから、それで道路の障害を直しながら早くこちらへ来い。こちらで普請工事に従事するのだ」

 これは秀吉が山崎の戦い当日、播磨にいる黒田官兵衛の父と生駒七郎右衛門に宛てた命令書(中京大学所蔵文書)だが、秀吉がこの日に光秀と合戦に及ぶ腹づもりがさらさら無かったことを示すと同時に、当時飾磨津に400挺の鍬が集められていた事実が分かる。大量の鍬で工事が行われていたのだ。


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