永禄9年(1566年)の墨俣砦プロジェクト完遂からちょうど1年、永禄10年9月に稲葉山城は織田信長の手に落ち、美濃一国が併呑された。その翌年、信長は上洛戦を敢行しさらに次の年に商業都市・堺に2万貫の矢銭を課した。
矢銭を直訳すると軍事目的税で、現在の価値でおおよそ2億円。ここで堺の自治のトップである会合衆たちが鳩首協議(きゅうしゅきょうぎ)し、戦備を進めながら結局は信長に屈してこの額を払うことになるのは、過去に本連載で紹介した。
ドラマもこの流れに従って展開していたが、会合衆を「えごうしゅう」と昔ながらの読み方で呼んでいたことに違和感半端ない。堺衆が帰依していた仏教寺院内の「会合衆(かいごうしゅう)」という組織を真似たものだというのが現在の説で、地元の堺市でもそう呼称している。
というのは置いといて、この一件以降浅井・朝倉との姉川合戦、大坂本願寺との泥沼の戦いの始まりと信長の生涯のハイライトは続くが、木下(豊臣)秀長の名が一次史料に見えるのは天正元年(1573年)まで待たなければならない。
「黒田の百姓衆いずれも還住せしむる上は、乱妨狼藉の儀あるまじく候、もし違乱の族(やから、うから)これあらば、急ぎ注進申し越すべく候」。
これはこの年の8月16日、北近江の伊香郡黒田郷の住民たちに還住を促す書面だ。
その半月後に小谷城に籠城していた領主・浅井長政が滅亡する以前、すでに織田方の支配下となっていた伊香郡の慰撫と後始末を、秀長は担当していた。彼が信長の直臣だった可能性が高いことはすでに述べたが、相当高い地位にあったと分かる。兄の秀吉もその5日前に黒田郷の東の近くの古橋村へ同じ様な還住推進策を提示しているから、一帯は「豊臣兄弟」によって戦後復興が進められたのだろう。
秀吉はこの直後の13日から織田軍の越前攻めに参加し、20日に朝倉義景が滅亡するまでは近江にはいなかったから、その下で参戦しなかった秀長はあくまでも独立した織田家臣として働いていたと見る方が自然だろう。古橋村よりも黒田郷の方が政戦略上の価値が高いことも、それを補強する材料になりそうだ。
黒田郷の価値
翌年2月20日、秀長は再び黒田郷にこんな命令を下した。
「当地に作業員45人を賦課するから、明日小原まで出頭せよ。さぼったら成敗するぞ」
小原というのは黒田郷から12キロメートル(km)ほども北の山林と渓谷なのだが、木材の切り出しと運搬にでも動員したのだろう。この時期、秀吉は信長から浅井長政討滅後の北近江3郡(坂田郡・浅井郡・伊香郡)を正式に与えられている。その伊香郡の黒田郷で秀長が作業員を徴発するということは、おそらく建築中の長浜城に関連するものだったはずで、秀長はここで完全に兄・秀吉の寄騎となったのではないか。
