7月26日に正式に世界遺産登録が決定し、注目を集めている「飛鳥・藤原」。古代に宮都が繰り返し営まれたこの地を象徴する石舞台古墳は、石室がむき出しになった姿で知られ、蘇我馬子の墓とされる。封土が失われたことで天井石が露出したその姿は、古代の権力者の威容を今に伝えている。石舞台古墳が示す、飛鳥時代の権力と技術の秘密とは——。
*この記事は、瀧音能之編『飛鳥・藤原に隠された古代宮都の謎』(ウェッジ刊)から一部を抜粋したものです。
*この記事は、瀧音能之編『飛鳥・藤原に隠された古代宮都の謎』(ウェッジ刊)から一部を抜粋したものです。
石室がむき出しになった古墳
推古天皇34年(626年)、初期の飛鳥朝を支えた蘇我馬子が亡くなった。馬子の生年は明らかではないが、平安時代末期の『扶桑略記』は享年を76とする。
『日本書紀』によると、彼の亡骸は「桃原墓(ももはらのはか)」に葬られた。この桃原墓に比定されているのが、石室を構成する巨石がむき出しになっていることで有名な石舞台古墳で、飛鳥川東岸の台地上に立地する(正確にいうと、飛鳥川と支流冬野川の合流点付近の東側)。
昭和8年(1933年)を最初として何度か発掘調査が行われている。それによると、1辺約50メートルの方形の基壇をもつ2段方墳もしくは上円下方墳で、花崗岩の巨石からなる横穴式石室は全長約19メートルと、日本有数の規模をもつ。石室の骨組みをなす30数個の巨岩の総重量は2300トンで、2石からなる天井石の南側の1石は77トンと推定されている。築造には優れた土木・運搬技術を要しただろう。
石室内は早くから盗掘されていたため石棺や副葬品類は不明だが、石室の内外から鍍金金具や多量の土器類が出土している。また、基壇の周囲には幅約12メートルの堀がめぐらされ、さらにそれを外堤が取り囲んでいる。
築造当初は石室は封土によって覆われ、墳丘が形成されていたとみられている。ところが、しだいに封土が失われてゆき、セミの抜け殻のように、石室だけが天井石を露出させて残されたのである。
