群集墳を破壊して築かれた
巨石が露出した石舞台古墳は、江戸時代には巨大な岩屋という意味で「石太屋(いしぶとや)」と呼ばれていたらしい。それが訛ってイシブタイと呼ばれるようになったらしいが、「狐が女に化けて石の上で舞を見せた」という呼称由来伝承もある。
明和9年(1772年)にこの古墳を訪ねた本居宣長は案内人に「推古天皇陵」と説明され(『菅笠日記』)、幕末の『西国三十三所名所図会』には天武天皇の殯宮(ひんきゅう)の古跡として紹介されているが、津川長道の『卯花(うのはな)日記』(1829年)では「馬子の墓ではないか」と指摘されている。
明治に入ると、考古学・民俗学・古代史の分野で先駆的な研究を行った喜田貞吉が細かい考証を行って石舞台古墳を馬子の「桃原墓」に比定する説を唱え、これを契機として、「石舞台古墳=馬子の墓」説が定説化した。またこれに伴い、石室が露出しているのは、天皇家をおびやかした蘇我氏の逆臣的な行為を懲罰するために封土が剥ぎ取られたのだ、という説もよく唱えられるようになったらしい。
とはいえ、被葬者を馬子と確定する決定的な証拠はまだ見つかっていない。しかし傍証は少なくない。たとえば、『日本書紀』舒明天皇即位前紀には、馬子の墓の築造にあたって蘇我氏の同族がすべて集まり、「墓所の廬(いお)」をつくって宿営していたという記述があるが、これに符合するように、古墳東の棚田に築造時の工事宿舎跡とみられる遺構が確認されている。
さらに注目されるのは、昭和50年(1975年)の発掘調査で、古墳築造に際して削り取られたとみられる6世紀代の小円墳7基が検出されたことだ。このことは、巨大な石舞台古墳が6世紀の群集墳を意図的に破壊したうえで築造されたことを示しており、被葬者が強大な権力をもっていたことを物語る。時代と地理を踏まえれば、その被葬者の姿には、やはり蘇我氏全盛期を到来させた馬子がもっともふさわしい。
