戦国時代の「銀の馬車道」構想
飾磨津は現在の姫路港で、当然ながら秀吉の姫路城から程近い。とはいえ当時は途中のルートが戦後まで低湿地ばかりで、交通の便が整ったのは割と最近のことだった。
江戸時代になると姫路藩が大坂で購入した材木はまず飾磨津まで回漕し、そこから「飾磨津衆」が東西に流れる宮堀川から南北に流れる船場川へと川舟で運び、北上して備前橋門、またはそのまま姫路城の外堀となった先の車門前あたりまで運び、そこから姫路町の年寄達が運搬するという手間をかけていた。秀吉・秀長の時代にはまだ城の堀なども整備されておらず、もっと運送の手間はかかっていたし、そこから生野銀山までのバイパスをつなげるとなるとこれは大変な手間と費用がかかる。
結局それが実現するのは明治6年(1873年)に銀山から飾磨津まで50キロメートルほどの「銀の馬車道」が開かれるのを待たなければならない。ただ、秀吉が天正12年(1584年)に「飾磨津で米200石を渡せ」と命じた様に、飾磨津自体は鍬400本のお陰なのか、物資の集積拠点として機能していた様だ。
秀吉・秀長が意を砕いたのは銀の搬出拠点の整備だけではない。生野銀山そのものの増産にも力を入れたのは当然のことで、天正13年時点になると銀山の坑道はそれまで5本だったものが一気に9本も増えている。この中には、天正8年に領主となってからの5年の間に秀吉・秀長が巨大資本を投じて開発を進めた成果だったものも含まれていることは間違いない。
秀吉・秀長が持っていたのは生野銀山そのものと飾磨津の湾港の開発・拡張という、まさに文字通りの「川上から川下まで」を地で行く構想。その成果が、前回「豊臣兄弟をのし上げた生野銀山のマネー事情…キースポットとなった竹田城と〝成長戦略〟」に紹介した慶長3年(1598年)時点での生野銀山からの税収の天文学的な数値に結びついたのだ。
「シルバー共栄経済圏」成る!
清洲会議の結果として池田恒興は大坂の他に尼崎・兵庫の地を得て(『太閤記』)、高山右近は高槻城主のままで4000石の加増を得るが、3年後に播磨国明石6万石に加増転封。中川清秀は元のままの摂津茨木領主のまま加増されたようだが、翌年彼が死んだ後に子の秀政が播磨三木12万石に加増転封されている。
兵庫・尼崎は姫路から大坂に至る航路の中継点であり、兵庫津から揚がる船役(入港税)は前年6月の内の半月でびた銭(摩耗したり一部欠けたりしている悪質な銭)160貫文あった(秀吉書状)。7月はひと月で300貫文、8月は同じく280貫文、9月同じく220貫文、10月のひと月弱分が150貫文。これを1年通して均すと年間3000貫文、びた銭レートでこの頃は良質な銭(精銭)の2分の1程度だから、現在の価値で1.5億円強の計算となる大きな収入額だ。
尼崎も、舟運で栄えた大物浦を抱える土地。そして明石と三木は姫路の東隣りに位置する。羽柴兄弟!は生野銀山と姫路を中心として資材・人材の供給と経済効果を共有する「シルバー共栄経済圏」に彼らを招き入れて共に繁栄を享受しようと考えたのだろう。
事実、秀吉はすでに天正9年(1581年)の段階で中川清秀に「貴殿が西国で2カ国を拝領すると信長様の側近から確認した」と書き送っており、早くからこの共栄経済圏への構想を示していたものと考えられる。彼の長期ビジョンの見事さを鮮やかに実感できるのではないだろうか。
こうしてシルバー・パワーに惹かれる武将たちによって山崎の戦いは最高の結果となって終わった。もし本当に秀吉が遅参したとすれば、文字通り棚からぼたもち、濡れ手で粟の勝利だが、それも彼が銀の恩恵を分かち合おうと動いていたリターンと敢えて言っておこう。
