2026年8月15日(土)

Wedge REPORT

2026年8月15日

 1945年8月15日、「終戦の日」とされる日本だが、戦闘が止まなかった場所がある。終戦直前に戦火に見舞われた樺太だ。

 ソ連の侵攻を受けたその地は、大きな被害を受け、日本に帰りたくても帰れない人もたくさんいた。そうした悲劇を受けた歴史は知られているようで知られていない事実だ。

 サハリンに残留を余儀なくされた日本人の声や、〝国境の地〟北海道稚内の今など、戦中・戦後の歴史から現在を考えることができる記事5本を紹介する。

<目次>

「戦争」は人ではなく国の戦い…かつての日本領・南樺太での戦争と引き揚げ体験…重延浩・テレビマンユニオン会長が語る(2025年7月18日)

【国境の街を歩く】サハリンと向き合う北海道稚内、平和を希求する人々の想い(2025年8月13日)

今、なぜ、サハリンの歴史を振り返る必要があるのか? 月刊誌『Wedge』戦後80年特別企画・後編〜終わらなかった戦争 サハリン、日ソ戦争が 戦後の日本に残したこと~(2025年8月8日)

〈戦後80年〉ドイツが行う「歴史との対決」、なぜ彼らはナチスが犯した罪を学び続けるのか?それでも“極右政党躍進”という新たな試練も(2025年8月1日)

戦火にまみれた80年前と地続きの現代…国境を越える人々の「匂い」と「記憶」 それぞれの“命がけの旅路”、世界の移民・難民から日本人が考えるべきこと(2025年7月22日)

「戦争」は人ではなく国の戦い…かつての日本領・南樺太での戦争と引き揚げ体験…重延浩・テレビマンユニオン会長が語る

重延 浩(Yutaka Shigenobu)テレビマンユニオン 会長 1941年、旧樺太豊原生まれ。1964年、国際基督教大学教養学部人文学科卒業。同年、東京放送(TBS)に入社。1970年、日本初の独立系制作プロダクションであるテレビマンユニオンの設立に参加。(Wedge)

今、なぜ、サハリンの歴史を振り返る必要があるのか?

 かつて日本の領土だった南樺太(現・ロシア・サハリン州)の町である、豊原(現・ユジノサハリンスク)で生まれたテレビマンユニオン会長の重延浩さんは、2023年8月に『ボクの故郷は戦場になった 樺太の戦争、そしてウクライナへ』(岩波ジュニア新書)を上梓した。

 「1945年8月11日、ソ連軍が北緯50度の国境線を超えて南樺太に侵攻してきました。父は開業医をしており、患者を病院に残したまま避難するわけにはいかないと、豊原に残りました。20日、母と3人の姉、兄と私は港のある大泊(現・コルサコフ)に汽車で向かいました。屋根のない無蓋車にはぎゅうぎゅうに人が乗っていました。大泊の港には、幾重にも人々が行列をつくっていました。父は樺太医師会長だったこともあり、その行列を横目に私たち家族は、いわゆる優先レーンで、先に乗船することができました。並ぶ人たちから恨めしそうな目線を向けられたことを覚えています。

 その時です。母が突然『帰りましょ』と、言い始めたのです。母としては、やはり父を残して行けないということだったのだと思います……

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【国境の街を歩く】サハリンと向き合う北海道稚内、平和を希求する人々の想い

 「カラフト?思いつくこと?何もない」(女子学生)

サハリン島は東西最大約160キロ・メートル、南北約948キロ・メートルと縦に長い島である(WEDGE)

 「思い浮かばないですね……」(男子学生)

 「カラフトでしょ?」と言い、女子学生がホワイトボードに記した文字は「棒太(ボウフト)」だった──。

 これは、稚内市樺太記念館の展示映像「私たちは、【カラフト】を知らない。」の冒頭のシーンである。

 小誌取材班は6月下旬、日本最北端の街・北海道稚内市を訪ねた。アイヌ語で「ヤムワッカナイ(冷たい水の沢)」に由来するこの街は、東にオホーツク海、西に日本海、北に宗谷海峡を挟み、ロシア・サハリン島と向き合う「国境の街」である。

 サハリンは1905(明治38)年、日露戦争後のポーツマス条約で、北緯50度以南が日本の領土(「南樺太」と呼ばれた)となった。以後、日本人によって、未開の地に多くの街々が築かれ、太平洋戦争終戦の45年までの40年間、そこは〝日本〟だった……

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今、なぜ、サハリンの歴史を振り返る必要があるのか? 月刊誌『Wedge』戦後80年特別企画・後編〜終わらなかった戦争 サハリン、日ソ戦争が 戦後の日本に残したこと~

 風は、サハリンの方に向かって吹いていた。立っていられないほどの強風で──。

 6月24日午前8時30分。私は日本最北端の地、北海道稚内市宗谷岬公園から宗谷海峡を眺めていた。かつての日本領・樺太、現在のロシア・サハリン島をこの目で確かめたかったからである。当日の天気は晴れ。あいにくサハリンは見えなかったが、空気が澄んだ日には、写真のようにはっきりと島影を確認できる。

 「なぜ、樺太を取材するのですか」

 取材中、何度も聞かれた言葉だ。きっかけは、小誌2024年12月号で特集した「令和のクマ騒動が人間に問うていること」まで遡る。余暇の時間を使ってヒグマとの関係が深いアイヌ文化を調べていると、ふと「樺太」のことに行き着いた。そして、終戦後も激しい地上戦が繰り広げられたことを知った……

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〈戦後80年〉ドイツが行う「歴史との対決」、なぜ彼らはナチスが犯した罪を学び続けるのか?それでも“極右政党躍進”という新たな試練も

6月5日、ベルリンのホロコーストモニュメントを訪問したドイツ外相とイスラエル外相(FLORIAN GAERTNER/GETTYIMAGES)

 第二次世界大戦後の歴史で、日本とドイツが最も異なる点の一つが、自国の負の歴史との向き合い方だ。歴史との対決(過去の清算)は、第二次世界大戦後のドイツで最も重要な社会的運動である。もしもこの国が歴史との対決を怠っていたら、他国の信頼を得られず、欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)に迎えられることはできなかったはずだ。

 「歴史との対決」を行う主体は政府、企業、学界、メディア、NGOなど多岐にわたる。特に日本との違いが大きいのは、ナチスによる犯罪の刑事訴追だ。

 極東軍事裁判は連合国によるものであり、日本の裁判所は、第二次世界大戦中に日本軍が外国で行った残虐行為などについて、日本人を1人も裁いていない。

 これに対しドイツの裁判所や検察庁は、ユダヤ人虐殺などに関与したドイツ人たちを、自分たちの手で今も訴追し続けている。連合国によるニュルンベルク裁判が終わった後も、ドイツ人がドイツ人を裁いた。

 最も大規模な裁判は、1963年から68年までに3回に分けてフランクフルトで行われたアウシュビッツ裁判である。アウシュビッツ強制収容所で収容者を殺害・虐待した親衛隊員ら25人が起訴され、そのうち22人が終身刑などの有罪判決を受けた……

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戦火にまみれた80年前と地続きの現代…国境を越える人々の「匂い」と「記憶」 それぞれの“命がけの旅路”、世界の移民・難民から日本人が考えるべきこと

空爆下のウクライナ北部チェルニヒウから逃れてきたリリアと息子たち=2022年3月16日、ポーランド南東部メディカ(YUSUKE MURAYAMA以下同)

 戦後80年を迎えたこの夏、命がけの旅路に身を投じる人々がかつてない水準に達している。

 ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルのガザ攻撃、ミャンマーやスーダンでの内戦の泥沼化――。国際シンクタンク・経済平和研究所によれば、国家が主体となった紛争は戦後最多の59件。新たに大規模紛争が起こる予兆も「戦後最悪」とし、さらなる戦火の広がりに警鐘を鳴らす。

 紛争の増加とともに故郷を追われた人の数は増え続け、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると昨年末時点で1億2320万人。10年前から倍増した。日本の総人口にも匹敵する人たちが家を失い、彷徨っている。

 平和が音を立てて崩れていくこの数年間、私は命をかけて境界を越えようとする人々の足跡を追ってきた。彼らが故郷を離れる理由は様々だ。戦争や内戦、民族対立、治安悪化、貧困。そして現状への絶望と未来へのかすかな希望。ある人は「難民」や「避難民」として保護を受け、またある人は密入国した「移民」として国境の外へ追い返される……

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