2025年12月5日(金)

終わらなかった戦争・後編サハリン

2025年7月18日

 かつて日本の領土だった南樺太(現・ロシア・サハリン州)の町である、豊原(現・ユジノサハリンスク)で生まれたテレビマンユニオン会長の重延浩さんは、2023年8月に『ボクの故郷は戦場になった 樺太の戦争、そしてウクライナへ』(岩波ジュニア新書)を上梓した。

重延 浩(Yutaka Shigenobu)テレビマンユニオン 会長 1941年、旧樺太豊原生まれ。1964年、国際基督教大学教養学部人文学科卒業。同年、東京放送(TBS)に入社。1970年、日本初の独立系制作プロダクションであるテレビマンユニオンの設立に参加。(Wedge)

今、なぜ、サハリンの歴史を振り返る必要があるのか?

 「1945年8月11日、ソ連軍が北緯50度の国境線を超えて南樺太に侵攻してきました。父は開業医をしており、患者を病院に残したまま避難するわけにはいかないと、豊原に残りました。20日、母と3人の姉、兄と私は港のある大泊(現・コルサコフ)に汽車で向かいました。屋根のない無蓋車にはぎゅうぎゅうに人が乗っていました。大泊の港には、幾重にも人々が行列をつくっていました。父は樺太医師会長だったこともあり、その行列を横目に私たち家族は、いわゆる優先レーンで、先に乗船することができました。並ぶ人たちから恨めしそうな目線を向けられたことを覚えています。

 その時です。母が突然『帰りましょ』と、言い始めたのです。母としては、やはり父を残して行けないということだったのだと思います。

 後に知ったことですが、私たちが乗船することになっていた小笠原丸は22日、北海道・増毛の沖合でソ連軍の潜水艦に撃沈され、乗船していた641人が亡くなりました。母のとっさの判断がなければ、私たちも海に沈む運命をたどっていたかもしれません。この日、第二号新興丸、泰東丸も撃沈され、三船併せて1708人が命を失いました」 

 結果的に九死に一生を得て豊原に戻るが、今度はソ連軍の空襲に遭う。

 「22日の午後、警報のサイレンが鳴り、私たちは駅前の防空壕に走り込みました。防空壕には、豊原に住んでいた人だけが入ることを許されたので、ソ連軍から避難してきた人たちは駅の構内からあふれ、広場に密集していました。激しい空襲の後、広場には血まみれになった数多くの死体が横たわっていたことを『映像』として覚えています」

 重延さんは、幼い頃から人に関心があり、何でも見てみたいと思う性格だったという。

 「人間の記憶は3歳以降だといわれていますが、私が1歳くらいの時のことです。部屋の障子まで這っていくと、そこに映る『影』を見ました。初めは何のことか分からなかったのですが、横を向くと私のまつ毛の影が映っていたのです。そのまつ毛を上下に動かしてみると、障子の影も同じように動く。あ、これが『自分』というものかと認識した瞬間でした。その記憶が映像として、今でもはっきりと残っているのです」

 戦争が起きる前の豊原での生活の様子はどうだったのか。

 「札幌と同じく、街路は碁盤の目状につくられ、整然としていました。病院で働く父と母は忙しく、末っ子だった私は一人で町中を歩きまわっていました。冬は寒かったですが、雪が降れば楽しく、学校から戻ると姉たちはスキーに出かけていました。私も4歳の頃、外でおしっこをすると、地面についたところから、おしっこの形のまま凍ってくるのが面白くて、わざわざ外に出て用を足していました。日本とは違う樺太の大自然を楽しんでいましたね」

 そんな豊原にもついに8月22日に空襲を受け、23日夜、ソ連軍が戦車で入城してきた。25日には大泊も占領、南樺太全体が制圧された。だが、しばらくすると町が平常通り作動するようになり、姉兄たちの学校も再開した。この時、重延さんは一人のソ連兵と親交を結ぶことになる。

 「占領されてから数日後のことですが、父の病院でソ連兵も受診できることが決められ、管理者としてカレオフという青年兵士が派遣されました。青い目をした美青年で、病院の看護師たちの間でも早速、人気者となりました。カレオフは、自分の仕事が終わると、私にロシア語を教えてくれるようになりました。そして、ソ連軍の慰安のための映画会に連れていってくれて、ディズニー映画の『ダンボ』や『バンビ』などを見せてくれました。この親交によって、ロシア人は怖いという印象がなくなりました。


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