風は、サハリンの方に向かって吹いていた。立っていられないほどの強風で──。
6月24日午前8時30分。私は日本最北端の地、北海道稚内市宗谷岬公園から宗谷海峡を眺めていた。かつての日本領・樺太、現在のロシア・サハリン島をこの目で確かめたかったからである。当日の天気は晴れ。あいにくサハリンは見えなかったが、空気が澄んだ日には、写真のようにはっきりと島影を確認できる。
「なぜ、樺太を取材するのですか」
取材中、何度も聞かれた言葉だ。きっかけは、小誌2024年12月号で特集した「令和のクマ騒動が人間に問うていること」まで遡る。余暇の時間を使ってヒグマとの関係が深いアイヌ文化を調べていると、ふと「樺太」のことに行き着いた。そして、終戦後も激しい地上戦が繰り広げられたことを知った。
終戦直前の1945年8月、樺太は突如として戦火に包まれた。ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、侵攻。日本側の民間人を巻き込んだ激しい戦闘となった。
戦闘は8月15日を迎えてもなお止まず、逃げ惑う避難民に対して、ソ連軍の機銃掃射が容赦なく浴びせられ、多くの命が失われた。街々は艦砲射撃で焼き払われ、追い詰められた人々の中には、集団自決を選ばざるを得なかった人もいる。避難民を乗せた疎開船3隻が北海道留萌沖でソ連の潜水艦の攻撃を受け、1700人以上が命を落とす「三船殉難事件」も起きた。樺太を占領したソ連は、自国民を送り込み、多くの日本人が残留を余儀なくされた。沖縄戦が唯一の地上戦だと思い込んでいた私は、自らの無知を深く恥じた。
記憶がなくなる前に、証言者を取材して記事に残し、一人でも多くの人にこの歴史を知ってもらいたい──。そう願い、取材班を組んだ。
今もなお、日ロ関係は様々な困難がある。一気呵成に事態を変えることはできないが、未来を切り拓くためには、歴史を知ることが欠かせない。戦後80年。樺太の悲劇を学び、読者の皆様とともに、歴史の忘却に抗いたい。
