戦争は、個人個人の思いを無視し、国と国が戦うものです。戦争がなければ友人になったかもしれない人を、ただ無作為に撃ち殺すものなのです。
46年12月、重延家も引き揚げが決まりました。ようやくソ連から引き揚げ許可が下りたのです。ただし、家や土地、預金などは置いていかなければなりませんでした。西の港、真岡(現・ホルムスク)からの乗船です。埠頭には長い行列ができていました。父母姉兄がソ連兵のチェックをパスしていく中、突然私の背負ったリュックの下に、ソ連兵がマンドリン銃を押し付けてきたのです。その銃口の感触は今でもはっきりと覚えています。だから、私は今でも背面恐怖症なのです。後ろから人がスッとやってくると、緊張してしまいます」
樺太の様子・記憶と重なる
ウクライナ戦争
重延さんはこれまで、樺太での体験を公には語ってこなかった。だが、ウクライナ戦争をきっかけにして、自らの体験を書き残すことを決めた。
「ウクライナの少年が、半分裸のような姿で避難している様子を映像で見て、『あれは当時の私だ』と思ったのです。自分の中の記憶と重なり、これは伝えておかなければならないという気持ちになりました。本では私の体験にあわせて、戦後75年にドイツのシュタインマイヤー大統領が出した声明文を引用しました。『君たち(若い人)が頼りだ。まさに君たちが、あの恐ろしい戦争の教訓を将来に伝えなければならないんだ』と」
重延さんは1989年5月、社会的ドキュメンタリーは当時、許可が出ないので樺太のグルメ番組の撮影と言ってソ連当局の許可を取り、43年ぶりに樺太の大地を踏んだ。空港から外へ出た時こう思ったという。
「ひんやりとした、それでいて清々しい。ああ、これが樺太の空気だ」
ただ、かつての面影はなく、完全な異国となっていた。それでもインタビュー中、樺太で過ごした時のことを話す重延さんの様子はとても生き生きとしていた。重延さんは言う。
「ロシア人に限らず、一人の人間として出会うと、皆良い人。だからこそ、私たちは戦後、日本を温かく迎え入れてくれた国際社会に感謝すると共に、人間に対して尊厳の心を持たない権力を絶対に生んではならないことを訴えたいのです」
