2025年12月5日(金)

終わらなかった戦争・後編サハリン

2025年7月18日

 戦争は、個人個人の思いを無視し、国と国が戦うものです。戦争がなければ友人になったかもしれない人を、ただ無作為に撃ち殺すものなのです。

 46年12月、重延家も引き揚げが決まりました。ようやくソ連から引き揚げ許可が下りたのです。ただし、家や土地、預金などは置いていかなければなりませんでした。西の港、真岡(現・ホルムスク)からの乗船です。埠頭には長い行列ができていました。父母姉兄がソ連兵のチェックをパスしていく中、突然私の背負ったリュックの下に、ソ連兵がマンドリン銃を押し付けてきたのです。その銃口の感触は今でもはっきりと覚えています。だから、私は今でも背面恐怖症なのです。後ろから人がスッとやってくると、緊張してしまいます」

樺太から函館に引き揚げた人々。左下の少年が重延さん(THE ASAHI SHIMBUN/JIJIPHOTO)

樺太の様子・記憶と重なる
ウクライナ戦争

 重延さんはこれまで、樺太での体験を公には語ってこなかった。だが、ウクライナ戦争をきっかけにして、自らの体験を書き残すことを決めた。

 「ウクライナの少年が、半分裸のような姿で避難している様子を映像で見て、『あれは当時の私だ』と思ったのです。自分の中の記憶と重なり、これは伝えておかなければならないという気持ちになりました。本では私の体験にあわせて、戦後75年にドイツのシュタインマイヤー大統領が出した声明文を引用しました。『君たち(若い人)が頼りだ。まさに君たちが、あの恐ろしい戦争の教訓を将来に伝えなければならないんだ』と」

 重延さんは1989年5月、社会的ドキュメンタリーは当時、許可が出ないので樺太のグルメ番組の撮影と言ってソ連当局の許可を取り、43年ぶりに樺太の大地を踏んだ。空港から外へ出た時こう思ったという。

 「ひんやりとした、それでいて清々しい。ああ、これが樺太の空気だ」

 ただ、かつての面影はなく、完全な異国となっていた。それでもインタビュー中、樺太で過ごした時のことを話す重延さんの様子はとても生き生きとしていた。重延さんは言う。

 「ロシア人に限らず、一人の人間として出会うと、皆良い人。だからこそ、私たちは戦後、日本を温かく迎え入れてくれた国際社会に感謝すると共に、人間に対して尊厳の心を持たない権力を絶対に生んではならないことを訴えたいのです」

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Wedge 2025年8月号より
終わらなかった戦争 サハリン、日ソ戦争が 戦後の日本に残したこと
終わらなかった戦争 サハリン、日ソ戦争が 戦後の日本に残したこと

1945年8月15日。終戦記念日として知られるこの日に、終わらなかった戦争があった――。樺太(現ロシア・サハリン)での地上戦、日ソ戦争である。
「沖縄が〝唯一〟の地上戦」と言われるが、北海道のさらに北、日本領「南樺太」でも地上戦があったことは広く知られていない。
8月9日以降、ソ連軍は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、侵攻。8月15日を経てもなお、戦闘は終わらなかった。この間、多くの人が亡くなり、沖縄戦同様、死の逃避行や集団自決もあった。長らくサハリンに残留を余儀なくされ、ソ連崩壊後にようやく日本に帰ることができた人もいた。
終わらなかった戦争は戦後の日本に何を残したのか。また、現代においても、様々な困難が立ちはだかる日本とロシアの関係はどうなっていくのか。
未来を切り拓くために過去の悲劇を学ぶとともに、歴史の忘却に抗いたい。


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