沖縄は戦後日本の歪みを一身に背負わされてきた。戦後80年の今こそ、現代の諸問題と地続きの「歴史」に学び、この国の未来のあり方を描くことが必要だ。「Wedge」2025年7月号に掲載の特集「終わらない戦争 沖縄が問うこの国のかたち戦後80年特別企画・前編」の内容を一部、限定公開いたします。
太平洋戦争末期、米軍と激しい地上戦が繰り広げられた沖縄では、軍民合わせて約20万人もの命が失われた。沖縄戦は人物や立場、つまりどういう角度から見るかによって、その見え方は異なる。筆者が着目したのは、沖縄を守備した第32軍高級参謀の八原博通だ。第32軍の「首脳」だった司令官の牛島満、参謀長の長勇、そして八原の中で、沖縄戦を生き抜いたのは八原一人だけだ。

1945年4月1日朝、米軍は艦砲射撃後に読谷村から北谷村(現・北谷町)にかけての海岸線に上陸。昼頃までに北・中飛行場を占領した(BETTMANN/GETTYIMAGES)
八原は1902年、鳥取県米子市に生まれた。勉強はよくできたが、家計に余裕はなく、官費で学べる陸軍士官学校に入学した。同期生の一人は第一印象について、「とにかく礼儀正しく、慇懃な物腰で無口な人物だった。(略)内気で自己顕示欲などまるでない性格だった」と回想している。自己顕示欲に乏しくても成績は抜群であり、陸軍大学校卒業時の席次は49人中優等の成績で、恩賜の軍刀を下賜された。
33年10月から約2年間、陸大優等生の特典として米国で学んだ。大本営参謀だった杉田一次が、帰国後の八原が話した米国観について語っている。
「八原さんは、開口一番、『アメリカ軍の実力は、日本陸軍が考えているような甘いものではないよ』と言われた。それが非常に印象的でした。というのは、われわれの仲間では『アメリカ軍なんて、日本の精鋭が攻撃すりゃ、アワを食ってすぐ逃げるよ』という意見が多かったからです」(『沖縄 悲遇の作戦』新潮社)。
米軍を侮りがたいと実感していた八原が、この時から約10年後、その米軍と対峙することになる。