2025年12月6日(土)

終わらない戦争・前編沖縄

2025年6月23日

徹底した持久戦を選択
「攻勢には絶対反対」

 八原が陸大教官から第32軍の高級参謀へと転任したのは、44年3月のことだった。ここで八原は強固な陣地を構築し、そこから上陸してくる米軍に対し、火砲で打撃を加えた後、三個師団の歩兵をもって、「撃滅」させる計画を立てた。

 しかし、同年11月、レイテ決戦のため、隷下の最精鋭部隊で兵力の3分の1を占めていた第9師団が台湾に転用されることになった。少ない兵力で打って出てもすぐに壊滅してしまうと考えた八原は、持久戦を展開し、少しでも損害を与え、その後の本土決戦が有利になるように、計画を変更。そして伊江島、北・中飛行場の確保は断念し、南部地域に軍主力を配置した。

 45年4月1日朝、米軍は沖縄本島中部の上陸地点めがけ、すさまじい艦砲射撃を行った。その後、18万人を超す部隊が沖縄本島中部西海岸から上陸作戦を展開し、昼頃までには北・中飛行場を占領した。早々に北・中飛行場を失うという展開は、八原にとっては想定内でも、大本営陸軍部や連合艦隊などには大きな衝撃だった。海軍などからは航空作戦実施のため、米軍が北・中飛行場を使用することをあらゆる手段で妨げるよう依頼があった。

 攻勢に傾く第32軍の中で八原は言葉を尽くし、「攻勢には絶対反対である」と訴えた。しかし、長参謀長は耳を貸さず、司令官の牛島も軍全力をもって北・中飛行場地区に出撃するよう指示を出した。〝潔く死ぬこと〟を美徳とするような観念が、持久戦の貫徹を阻んだ。八原が手帳に記した「八原君! 君と僕とは常に難局にばかり指し向けられてきた。そしてとうとうこの沖縄で、二人は最後の関頭に立たされてしまった。君にも幾多の考えがあるだろうが、一緒に死のう」という長の言葉は、その観念を象徴している。

 同年5月4日早朝から始まった日本軍による総攻撃で日本軍の戦死者は約5000人にも上り、米軍の戦史は「5月4日から5日にかけての反攻作戦は、八原の戦術が長の戦術よりも優れていたことを、如実に示したのである」と評価を下している。八原の反対にもかかわらず決行された総攻撃は失敗に終わった。作戦を推し進めた参謀たちについて、八原はこう慨嘆する。

※こちらの記事の全文は「終わらない戦争 沖縄が問うこの国のかたち戦後80年特別企画・前編」で見ることができます。

Facebookでフォロー Xでフォロー メルマガに登録
▲「Wedge ONLINE」の新着記事などをお届けしています。
Wedge 2025年7月号より
終わらない戦争 沖縄が問うこの国のかたち
終わらない戦争 沖縄が問うこの国のかたち

かつて、日本は米国、中国と二正面で事を構え、破滅の道へと突き進んだ。 世界では今もなお、「終わらない戦争」が続き、戦間期を彷彿とさせるような不穏な雰囲気や空気感が漂い始めている。あの日本の悲劇はなぜ起こったのか、平時から繰り返し検証し、その教訓を胸に刻み込む必要がある。 だが、多くの日本人は、初等中等教育で修学旅行での平和学習の経験はあっても、「近現代史」を体系的に学ぶ機会は限られている。 かのウィンストン・チャーチルは「過去をさかのぼればさかのぼるほど、遠くの未来が見えるものだ」(『チャーチル名言録』扶桑社、中西輝政監修・監訳)と述べたが、今こそ、現代の諸問題と地続きの「歴史」に学び、この国の未来のあり方を描くことが必要だ。 そこで、小誌では、今号より2号連続で戦後80年特別企画を特集する。前編では、戦後日本の歪みを一身に背負わされてきた「沖縄」をめぐる諸問題を取り上げる。


新着記事

»もっと見る