コロナ禍、ロシア・ウクライナ戦争、イスラエル・ガザ戦争……。昨日までの日常が一瞬で崩れ去る世界に、いよいよ平和ボケしていられないのだと悟る。終戦から80年。戦争体験者が減りゆく日本で、“最後の生き証人”として戦争の痕跡を生々しく伝える存在は、意外にも身近にある。「戦災樹木」だ。
空襲の被害地区にあり、焦げ跡などの損傷を幹や枝に残し、その傷が戦災によるものという裏付けがある──この条件を満たす木は、都内だけでも200本を超える。だがその存在を知る人は少ない。
かく言う私もそうだ。学術的に戦災樹木の研究を進める菅野博貢氏(明治大学農学部准教授)の著書『蘇る戦災樹木』(さくら舎)を読むにつれ、居ても立っても居られなくなった。戦火を生き延び、私たちの傍で静かに語りかけてきた戦災樹木を、見出さねばならないし、残さねばならない。戦災樹木を辿る旅が始まった。
長岡の日常風景の中に……
4月12日、土曜の朝。JR長岡駅。古巣の懐かしさと、未知への緊張が入り混じる。何カ月も前から桜の開花予測をチェックし、どうしても、この時期に訪れたい場所があった。
新潟県長岡市といえば、毎年8月2日、3日に開催される長岡花火が有名だ。その2日間は駅前の大手通(おおてどおり)が見物客でびっしり埋め尽くされる。花火も終盤に差し掛かると、人山の列は新幹線乗り場まで続く。
駅構内を抜けて、東口に出る。市民の生活を静かに感じながら、線路沿いの道を歩く。視界の端に山々を捉え、足元に赤茶色の道が広がると「あぁ、長岡の街だ」と学生時代の記憶が蘇る。消雪パイプから出る地下水に含まれる鉄が、酸化して道路を染めるのだ。
晴れ間がさし、思いの外、汗ばんで上着を脱いだ。市街地の桜は今日でまた一段と花開くだろう。かれこれ10分ほど歩くと、長岡の市街地を流れる柿川(かきがわ)沿いの道に出た。線路の先、遮断桿に縁どられ、桜のピンクが目に飛び込んできた。
(あった……!)
踏切の途中でカンカン鳴り始めたので小走りすると、いよいよ胸の高鳴りが収まらない。新幹線の高架橋をくぐると、黄色い欄干の小さな橋が架かっていた。
一本先の旭橋から、さらに下流へ桜並木は続くが、この一角は静かだ。近所の家族だろう。真新しい制服に背筋を伸ばす中学生や、大きなランドセルを担いだ子が記念撮影をしている。そんな微笑ましい光景にふと目頭が熱くなる。赤の他人が、なぜと思うだろう。