2024年12月11日(水)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年5月5日

日本が戦争へ突き進んでいった道筋は、政治や軍事だけでは語れない。世界恐慌に伴う不況、ブロック経済、都市と地方の格差、高まる社会不安と繰り返されるテロ……当時の経済の動きを振り返れば、なぜ日本人が戦争を望んだのかが見えてくる。 
戦後、日本は戦時経済下での経験を活かし復興を遂げる(Komata/Gettyimages)

 第4回で見たように日本は太平洋戦争の結果多くの国富と人命、そして領土を失った。しかし戦後日本はそれをプラスに転じることで、復興、そして高度成長を遂げることになる。

 大正時代に植民地を不要とするいわゆる「小日本主義」に基づく主張をし(第2回連載『格差への不満を原動力に日本が突き進んだ「大日本主義」』参照)、その後ブロック経済も批判した石橋湛山は太平洋戦争末期、敗戦後を考えることを大蔵大臣に提案した。その結果、大蔵省内に「戦時経済特別調査室」が設置され、石橋のほか経済学者や金融関係者が委員となり「戦後」の日本や国際秩序の研究を行った(その資料は近年、名古屋大学で発見されている)。

 委員間での議論の中で石橋は、領土を失うことはその領土を維持する負担から解放されることでもあり、戦後の日本は朝鮮や台湾を失い本土のみになったとしても、国内開発に力を入れ、また国際秩序において世界に自由な貿易が復活すればそれを利用して十分発展できると主張した。委員だった経済学者の中山伊知郎(のち一橋大学学長)は戦後、石橋の先見の明に脱帽している。

 石橋は終戦直後の『東洋経済新報』社論においても、領土が削減されても日本の発展には障害とはならず、科学精神に徹すれば「いかなる悪条件の下にも、更生日本の前途は洋々たるものあること必然だ」と断言し、その後も引き続き国民を鼓舞した。

 一方、大東亜省調査課で電力および工業全般を担当していた大来佐武郎(のち日本経済研究センター理事長、外務大臣)は、1943年頃から日本の敗戦を予期して戦後の日本経済再建の問題を考えるようになる。大来は東大電気工学科の後輩の後藤誉之助(のち経済企画庁調査課長として経済白書の執筆に関与)に協力を求め、当時東北に疎開していた石橋湛山や元関東軍参謀の石原莞爾にも相談したうえで終戦後を考える研究会を組織する。

 終戦により大東亜省が解体されると大来らは外務省に移り、研究会は外務省特別調査委員会として活動を行った。これは外務省の非公式な委員会であったが、官僚や財界人のほか、前述の中山伊知郎や、有沢広巳や大内兵衛(両者とものち法政大学総長)、脇村義太郎(のち日本学士院院長)、山田盛太郎(のち東京大学経済学部長)、宇野弘蔵(のち東京大学社会科学研究所教授)、東畑精一(のちアジア経済研究所所長)、都留重人(のち一橋大学学長)といった経済学者が立場を超えて参加して熱心に議論し、大来と後藤が会の実際の運営を行った。

 外務省特別調査委員会は1946年3月にその研究結果を冊子『日本経済再建の基本問題』(以下『基本問題』)にまとめる。『基本問題』では敗戦により多大な被害が生じ、さらに戦後は現物による賠償負担(冷戦の進行によりかなり軽減されたが)に加えて食糧不安、多くの失業人口の発生、インフレの昂進などの困難が生じていることが挙げられ、日本の直面する課題が極めて深刻であることが詳しく説明されている。


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