前回の最後に米騒動を取り上げた。日本は幕末から明治初期には米穀を輸出していたが、その後は人口増加もあり内地(日本本土)だけでは米穀の自給ができない状態となった。そのため植民地となった台湾および朝鮮から米穀を移入し、さらに外米(仏領インドシナ産のサイゴン米、英領ビルマ産のラングーン米)を輸入することで米穀需要を賄っており、米穀供給に余裕がなかったことが米騒動の遠因となった。
では食糧ほか不足する資源は植民地を獲得してそこから移入するのか、それとも海外から輸入するのか、どちらが望ましかったのだろうか。
戦前は『東洋経済新報』(現・週刊東洋経済)で活躍した経済ジャーナリストであり、戦後は政治家に転じて首相にもなった石橋湛山は、大正期に植民地獲得を目指す「大日本主義」を批判したことで知られる。『東洋経済新報』は英国のマンチェスター学派の「小英国主義」(帝国主義政策への反対、自由貿易の推進)の影響を受けており、特に1912年から主幹となった三浦銕太郎の下で、帝国主義に反対し国内の改革と個人の自由な活動によって国民の福祉を改善していく「小日本主義」を提唱するようになっていた。
三浦は各国の帝国主義政策がかえって軍備拡張により国際情勢を不安定化させ軍事費支出の拡大により経済に悪影響を与えていると批判し、日本も英国の「小英国主義」を見習って、「小日本主義」の立場から、満洲における利権を放棄して軍事費を削減することを主張した。
石橋自身は「小日本主義」という言葉をほとんど使っていないが、『東洋経済新報』の論調をさらに発展させていく。その主張の背景には、石橋の思想があった。アダム・スミスやリカードなど英国の古典派経済学の研究を行った石橋は、富の源泉は労働にあり、経済は自由な個人の分業によって成り立つと考えた。したがって、日本のみならず各国は経済発展のために教育により国民の能力を高め、労働生産性を上げるとともに、分業の範囲を広げるために貿易で国際分業を進めていくべきである、というのが石橋の考えであった。
こうした考えからは、当時問題視されていた日本の人口の多さと増加率の高さは「人口過剰」として悲観視するものではなく、むしろ分業による経済発展に有利であり、また日本に天然資源がなくとも、貿易さえ自由に行われるのであれば国際分業の観点から問題ないことになる。
石橋は明治末期から米国との間で外交問題となった日本移民排斥問題に対しては、移民を受け入れる米国の立場も感情面から考慮しなければならないと反米感情を戒めるとともに、産業が発達し貿易も盛んになっている現在では対外移民や大陸への進出を正当化する人口過剰など起こりようがないと、国際摩擦の原因となる移民や帝国主義の不要を主張した。