現代の世界は経済のグローバル化が進んだ一方、貧富の格差など社会の分断も深刻となっている。それにより国内が不安定化してテロや暴動が発生したり、社会の不満が外に向けられて国際秩序が危機に瀕する事態も生じている。こうした事態は戦前の日本も経験したことであった。
この連載では、なぜ日本が戦争へと向かっていったのか、その経験から何を学べるのかを経済の側面から考えていきたい。
日露戦争後、巨額の外債の支払いなどで国際収支の危機に直面していた日本にとって、第一次世界大戦の勃発(1914年)はまさに「天祐」(天の助け)であった。大戦勃発当初は経済混乱が起きるが、1915年後半に入ってからは、多くの軍需物資を必要とする英仏露など欧州連合国向けの輸出や、中立を保ちながら連合国への輸出を激増させていた米国への輸出が急増した。大幅な輸出超過により日本はそれまでの債務国から債権国へと転換した。
また国際的な船舶需要急増により造船業が発達し、欧州からの輸入が困難になったことで機械工業、化学工業、鉄鋼業など重化学工業も国内代替化が進み急速に発展した。既に発展していた紡績業や製糸業など繊維産業も、欧州からの輸出の急減により、その穴を埋める形で日本からの輸出が急増した。
こうして第一次世界大戦は日本経済の工業化を大きく促進した。また工業化の進展により京浜、京阪神の工業地帯には多くの労働者とそれを相手とする小売商などが集まるようになり、都市化も加速することになった。
未曽有の好景気により急激に事業を拡張した既存の経営者や、新たに参入した経営者は、派手な活動を行うようになった。特に、事業を通じてにわかに資産を築き、広大な屋敷を建てたり派手な芸者遊びをしたりする「成金」と呼ばれる人々が注目を集めた。
その一方で質素な生活を送り成金趣味と無縁だった経営者も少なからずおり、また世間からは「成金」と言われつつ教育機関に多額の寄付を行うなど社会貢献も行っていた経営者もいた。
文化の面からは、「成金」と呼ばれた経営者が利益を豪勢な建物や庭園の造成、美術品収集に向けたことにより、現在でも残されている名建築や庭園、美術品コレクション(久原鉱業の久原房之助が整備した東京・白金台の八芳園、川崎造船所の松方幸次郎が残した松方コレクションなど)が生まれたことも重要である。
好景気に沸いたのは経営者だけではない。膨大な需要に応じるために一部の工場に勤める労働者には高い賃金が払われたり、都市部の住民が増加したことにより木炭価格が上昇したり、書画や骨董の取引が盛んになったことからそれらと同時に飾る盆栽の価格が急騰したりして、「職工成金」「炭成金」「盆栽成金」も登場するなど、多くの国民も「成金時代」に浮かれた。