第一次世界大戦による好景気で良く使われた「成金」という言葉には、「成り上がり者」という侮蔑の意味と、「庶民の夢を実現してくれた」「庶民の代弁者」「ロマンに満ちた英雄」という憧れの意味とが共に含まれていた。
好景気の中でも拡大していく貧困層
このように好景気に沸いていた日本に衝撃を与えたのが、京都帝国大学経済学部教授であった河上肇による『貧乏物語』(大阪朝日新聞での連載1916年9~12月、単行本1917年)であった。「驚くべきは現時の文明国における多数人の貧乏である」と始まる『貧乏物語』は、「英米独仏その他の諸邦、国は著しく富めるも、民ははなはだしく貧し。げに驚くべきはこれら文明国における多数人の貧乏である」と、経済的に発展しているはずの欧米において巨大な貧富の格差が存在することを当時の欧米の最新の統計を用いてわかりやすく説明した。
例えば、ドイツ、フランス、英国、米国では、人口の65%を占める最貧困層はそれぞれの国で数%の富しか保有していないにもかかわらず、人口の2%しかいない最富裕層が一国の富の60~70%を保有しているという極端な富の偏在が示されている。
欧米を目標に経済発展を目指してきた日本人にとって、経済発展が必ずしも貧富の格差是正につながらないことを明確に示した『貧乏物語』は衝撃的であった。また、『貧乏物語』は統計や図表(現在でも富の偏在を表すのによく使われるローレンツ曲線など)などの社会科学の手法を用いて貧富の格差の存在を分かりやすく説明し、それも新鮮なものとして受け止められた。
河上は欧米諸国の貧富の格差の存在を示した後で貧困が存在する理由を説明しているが、それは富裕層が奢侈品を消費するためであるというものであった。現在の経済学用語を使えば、富裕層が限界効用逓減によって必需品に飽き足らなくなって奢侈品を需要するために、社会の生産が奢侈品に向けられ、必需品が生産されなくなり、社会の貧困をもたらしているというのが河上の主張であった。
これは貧困の原因の説明になっていない(最初に富者と貧乏人の所得格差が前提とされている)として多くの経済学者から批判を浴びたが、ともかく河上はこうした主張から貧困を解決する手段として、儒教や仏教の教えを引用しつつ「富者による自発的な奢侈の廃止」を提案した。
その後河上は『貧乏物語』への社会主義者からの批判を受けてマルクス主義の本格的な研究を開始し、最終的に社会主義革命の道に進んでいき、日本共産党員となって1933(昭和8)年に治安維持法違反で検挙される。
その一方、『貧乏物語』執筆前の河上は繰り返し国内における貧富の格差と国際間の「貧富の懸隔」を論じていた。つまり、河上が『貧乏物語』連載当時に問題にしていた「貧乏」には二重の意味が込められていた。一つは「日本の貧乏」(日本社会において欧米のように貧困層が拡大しつつあること)であり、もう一つは「貧乏な日本」(日本経済が欧米と比べて相対的に劣位にあること)である。