2024年6月22日(土)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年5月2日

 石橋は大正期に入っても、植民地を確保・維持しようとするから逆に多くの軍事費が必要になるのであり、日本は植民地を放棄しても貿易によって遥かに多い利益を得られるとする、いわゆる「小日本主義」の代表的な主張をしている(「大日本主義の幻想」『石橋湛山全集』第4巻)。

 このように植民地主義を批判し、戦後日本のように貿易や生産性の向上による平和的な経済発展を主張した石橋のいわゆる「小日本主義」は、現在その先見性を高く評価されている。

不可欠になってしまった台湾・朝鮮

 ただ、その後の日本は石橋の主張とは逆の方向に向かっていった。その背景には第一次世界大戦後のグローバル化の再開の中で生じた日本の構造的な不況があった。

 第一次世界大戦終結(1918年11月)後、しばらくは戦後復興への期待から依然として好景気が続いたが、1920年には反動恐慌が起きてバブルは崩壊し、「成金」の多くは没落した。また、大戦中に上昇した物価が高止まりしたことにより実質為替レートが高位になり、大戦中に成長した重化学工業や軽工業は大戦後に国際市場に復帰した欧州企業との間で不利な競争を強いられた。

 事後的に見れば1920年代の日本は緩やかな経済成長が続いており、国際的にも大戦で疲弊した欧州諸国と比較して日本経済の成長率は高い方であったが、特に外国企業との競争が激しくなったことが財やサービスの価格低下をもたらし、それにより大戦中の好景気の時期と比べて「慢性不況」が続いているという意識が広まった。

 こうした中で1923年には関東大震災が起きて経済は大きなダメージを受け、企業の手形の支払いは猶予されるが、それが不良債権化して銀行の経営を圧迫し、昭和金融恐慌(1927年)を引き起こすことになる。

 また、史上初の社会主義国家・ソ連を誕生させたロシア革命(1917年)と、米騒動とを契機として、社会主義思想の広がりを防ぐために都市部の労働者・住民の生活が重視されるようになり、米穀を低価格で供給することが目指された。一方で大戦後は輸出の減少により国際収支も悪化したため、米穀輸入よりも植民地である朝鮮・台湾における米穀の増産と日本本土への移入が重視された。

 これにより日本は1930年代には米穀を「自給」できるようになったが、それは石橋の「大日本主義」批判とは裏腹に、植民地である朝鮮や台湾が日本社会の安定にとって不可欠な「役に立つ」存在となったことを意味した。

 さらにこのように朝鮮や台湾から安価な植民地米が移入されたことと、前述した実質為替レートの高位に加え、世界的な農産物価格低下により国内農産物価格も低下し、農家収入は低迷して農村は苦境に陥るようになった。一方で交通網やメディアの発達により農民が都市の情報に接触する機会が増えたことにより、都市と比べた農村の相対的格差が強く認識されるようになった。


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