2024年11月22日(金)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年5月5日

 ただ、こうした困難の中でも戦争は「幾多の貴重な教訓と日本民族の将来に対する贈物をも残した」とされている。日本は戦時経済によって機械類を自給する能力を達成し、大量の技術者、徴用工、その他重工業労働者が養成された。また計画経済の経験と訓練を積んだこと、軍事費や植民地経営の諸費用の負担がなくなったことも有利となる条件であり、そして戦後の民主主義は責任を自覚する持つ国民の増大によって生産力を向上させるだろうと期待されている。

 こうした分析から『基本問題』の後半では農村向け工業生産を振興し、労働力が豊富で資源不足の日本では労働集約的な工業を世界分業の観点からも発展させていくこと、国際的分業をしつつ同時に国内資源の開発利用を目指す必要があるとされる。

 「結語」では人口過剰を解決するために外国への移民が必要であるにしても、まず民主的な政治の再建と国土の徹底的開発に努力を払い、それによって日本の信用を回復することが必要であり、その後に「公正なる主張を為し得る資格」が与えられるとされている。

復興の鍵となった「傾斜生産方式」

 こうした分析と提言を行った『基本問題』は直接政府の政策にそれを反映させるために作成されたものではないが、日本に対する賠償軽減・重工業の必要性を訴える資料としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に提出され一定の影響を与えたともいわれる。また戦争の被害の大きさを認めつつ戦争によってもたらされた肯定的な面にも目を向けた『基本問題』は、経済政策に関わる担当者を勇気づけるものでもあった。

 他方、現実の日本経済は戦争で多くの国富が失われた上に輸入もGHQにより制限され、国内資源と過去のストックだけに依存する極めて厳しい状態が続いていた。1946年5月の第一次吉田茂内閣成立後、同年夏から秋にかけて吉田を囲む私的ブレーン集団「昼飯会」ができる。昼飯会は有沢広巳、中山伊知郎、東畑精一、大来佐武郎、茅誠司(物理学者、のち東大総長)、農相の和田博雄、そして吉田の側近の白洲次郎などから構成され、時事問題を議論した。

 有沢や大来らの間では産業の基盤となる石炭に優先的に(傾斜させて)資源を割りあて、石炭の増産と鉄鋼の増産を交互に繰り返すことで経済全体の拡大再生産を進める構想が考えられた。これは後に「傾斜生産方式」と呼ばれる。有沢によれば、傾斜生産の発想は、戦時中に各国の経済抗戦力を分析した秋丸機関(陸軍省戦争経済研究班)で抗戦力測定を行った経験から来たものであった。

 1946年7月末に吉田首相はマッカーサー司令官に日本経済の危機を訴え、マッカーサーは日本経済復興のための資材緊急輸入を許可すると回答し、これにより具体的な緊急輸入品目に関する交渉が続けられた。有沢・大来らは、重油を緊急輸入すればそれを鉄鋼生産に回し、それを基に傾斜生産すれば石炭増産が可能とする自分たちの構想を昼飯会で吉田に理解させた。

 石炭増産のため1946年11月に吉田の私的諮問機関である石炭小委員会(委員長は有沢)が発足する。石炭小委員会は炭鉱への資材の優先配分、3000万トンの石炭生産の前提条件である労働意欲向上のための諸政策、国民の協力を得るための諸施策などを盛り込んだ「石炭対策中間報告」をまとめ、これに基本的に沿った内容が閣議決定され1947年初頭から傾斜生産方式が実施された。

 近年の経済史研究では傾斜生産方式の効果には否定的だが、実は傾斜生産方式は「日本人が日本国内の資源を用いて自助努力により経済再建する」という形でGHQの信用を得て、本当に必要な重油の輸入を求めるためのレトリックであり、またそれを大々的に宣伝することで国民の労働意欲を引き出し、その意味で効果的であった。


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