2024年4月20日(土)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年5月5日

 重油の緊急輸入と米国のEROA(占領地域経済復興資金)によって原材料輸入に対する援助が始まったことにより1948年から生産は回復していくが、同時にインフレも進む。一方で冷戦の進行により米国にとってアジアにおける資本主義の拠点としての日本の重要性は増していた。また放漫財政とみなされた日本に米国が経済援助を行うことには米国国民の不満もあり、日本経済を自立させながらソ連に対抗する拠点にすることが急務となっていた。

 1949年2月には財政金融引き締め政策である「ドッジ・ライン」が実施され、国内補助金と米国からの援助を打ち切ることで日本経済の自立が目指される。日本はインフレが収まる一方で不況になるが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると米軍など国連軍向けの特殊需要(朝鮮特需)が急増し、経済は本格的に復興に向かった。

 1952年にサンフランシスコ講和条約が発効して日本は独立を回復し、1950年代前半の日本は国内の消費の増加により概ね景気は好調な状態が続く。ただ、景気上昇による輸入増加で国際収支が赤字へと転じ、そのために金融引き締めと緊縮財政が実施されることが繰り返され(国際収支の天井)、経済成長の制約ともなった。

敗戦により解消された日本の二つの「貧乏」

 一方、ブロック経済の進展が第二次世界大戦を引き起こしたという反省の上に作られた戦後のブレトン・ウッズ体制(国際通貨基金<IMF>や関税貿易一般協定<GATT>を基軸とした自由貿易体制)への復帰は日本にとって大きなメリットをもたらした。国内を見ると、『基本問題』でも取り上げられていた戦争・敗戦のプラスの面は確かに経済に好影響を与えた。財閥解体により各産業分野での独占・寡占がなくなり、各企業は戦時期の遅れを取り戻すために盛んに新技術の開発や海外からの技術導入をして競争し生産性が向上した。

 そして農地改革や財閥解体・戦後のインフレにより所得格差が小さくなり、多くの中間層が生まれた。さらに戦後はベビーブームによって若年人口が急増し、彼・彼女らが1960年ころに労働力人口と同時に消費主体となり消費も増加していった。日本経済が成長する準備は1950年代後半には整い、それが高度経済成長の原動力となっていく。

 第1回で紹介したように、河上肇は「日本の貧乏」と「貧乏な日本」の解消の鍵を総力戦体制に見出したが、実際にはそうした問題を戦争によって直接解決することはできなかった。ただ、今回紹介したように、戦争の体験と戦争による内外の変化をプラスに転じることにより、「日本の貧乏」と「貧乏な日本」は解消に向かっていった。

 戦後80年近くが過ぎ、現在の日本では再び貧富の格差が拡大し、また他の先進国や新興国と比べて日本の国際的地位は低下しつつあり、「日本の貧乏」と「貧乏な日本」が改めて問題となっている。さらに現在は世界的にも社会の分断が進んで国際秩序も危機に瀕しており、「新たな戦前」とも言われる状況となっている。

 国内および国際的な格差とそれへの関心の高まりが社会を不安定化させ戦争を引き起こしていった歴史を繰り返さないためにも、そして国内外の変化を前向きにとらえそれをプラスに転じていくためにも、歴史を振り返りそこから学ぶことが必要である。今回の連載がその役に立てば幸いである。

参考文献

筒井清忠編『昭和史講義【戦後文化篇】上』ちくま新書
名古屋大学大学院経済学研究科附属国際経済政策研究センター情報資料室『荒木光太郎文書解説目録 増補改訂版
牧野邦昭「石橋湛山に学ぶ国際協調の意義 理念支える制度の設計肝要(経済教室)」日本経済新聞2022年8月15日朝刊

『Wedge』では、第一次世界大戦と第二次世界大戦の狭間である「戦間期」を振り返る企画「歴史は繰り返す」を連載しております。『Wedge』2022年6月号の同連載では、本稿筆者の牧野邦昭氏による寄稿『テロと戦争への道を拓いた大正日本経済のグローバル化』を掲載しております。
 
 『Wedge』2021年9月号で「真珠湾攻撃から80年 明日を拓く昭和史論」を特集しております。
 80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
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