第3回で紹介したように、満州国の建国という成功体験がさらに中国北部(華北)を日本の支配下に置こうとする華北分離工作を引き起こし、それが日中戦争へとつながったことを指摘した。日本が華北、そして中国を勢力下に置こうとした背景には当時の世界のブロック経済化の進展もあった。
昭和恐慌後、高橋財政下で日本からの輸出が急増して景気は急速に回復するが、軽工業製品を中心とした輸出品は主に英国植民地に向かったため英国との激しい貿易摩擦が起きることになる。不況に苦しむ英国は自国の貴重な市場を守るために「スターリング・ブロック(英ポンド経済圏)」の強化を図っていく。これに対し、日本では満州国を合わせた「日満経済ブロック」、さらに中国を加えた「日満支経済ブロック」の建設の主張が軍部だけでなく財界を含む国民世論となっていった。
金解禁論争における「新平価四人組」のうち高橋亀吉や山崎靖純は、それまで自由貿易を主張していた英国がブロック経済に転換したことを批判して「日満支経済ブロック」の建設を主張し、軍部に協力していく。高橋や山崎と同じ「新平価四人組」だった石橋湛山は満州国建国など現実の日本の行動を追認しながらも自分の基本的な考えは維持し、ブロック経済論を批判して国際貿易の重要性を説き、英国との関係改善を主張し続けるが、流れを変えることはできなかった。
日本国内では、多くの植民地や広い領土を持つ「持てる国」英米中心の国際秩序に対し、「持たざる国」日本が同様の「持たざる国」と一緒に挑戦していこうという風潮が広まる。1933年に国際連盟を脱退した日本は同じく脱退したドイツと1936年に防共協定を締結する(1937年にイタリアも参加)。
一方、日中戦争が泥沼化すると、日本国内では蒋介石政権を援助していると考えられた英国への反発が強まり排英運動も激化していく。こうした中、米国は日中戦争での日本の軍事行動に抗議するため1939年7月に日米通商航海条約を破棄するが、日本は米国に対抗することを意図して1940年9月に日独伊三国同盟を締結し、また中国の蒋介石政権への援助ルート(援蒋ルート)の遮断を目的に北部仏印(フランス領インドシナ)への進駐を実施する。
既に1939年9月に始まっていた第二次世界大戦で英国救援の姿勢を強めていた米国は、ドイツの同盟国となった日本をさらに牽制するため同年10月に屑鉄の対日禁輸を決定する。資源入手が困難になってきた日本では資源確保のために東南アジアに進出しようとする南進論が強まり、1941年6月に独ソ戦が勃発して北方のソ連の脅威が軽減されたことを機に同7月に南部仏印進駐を実施するが、米国は直ちに在米日本資産を凍結して石油輸出を停止し、英国も同調した。