例えば日本も米国も主戦場に軍隊や軍需物資を運んだり、また資源を本国に運ぶには大量の船舶(輸送船)を必要としたが、開戦前の日本は当面の日中戦争に対応するため、軍需部門と生産力拡充の基礎となる製鉄・機械工業部門とに資源が優先的に投下されており、南方の資源を入手するのであれば本来は大量に必要だった船舶の増産は後回しにされていた。
船舶を大量に建造する計画造船体制の制度が整うのは開戦後の1942年5~6月であり、実際の体制が整うのは43年後半であった。その頃には既に戦局は悪化し造船の原材料となる資源の本土還送が難しくなっていた。
一方で米国は本格的に第二次世界大戦に参戦する前から、豊富な資金と強い権限によって船舶の建造計画を加速しており、流れ作業的なブロック建造方式と電気溶接工法を採用して船舶の建造期間を短縮し大量建造を可能にした。船舶が猛烈な勢いで建造されるようになり、また輸送船を撃沈しようとするドイツのUボート(潜水艦)に対する連合国軍の攻撃システムの確立によって船舶の損失も43年から大幅に減少したため、英国への軍事物資の補給も問題なく行えるようになった。
海軍力だけで言えば1941年の日本と米国とは互角ともいえる状態だったが、それを支えるロジスティクスの準備には大きな差があり、それが勝敗を決めることになった。
甚大な被害と共に再出発
太平洋戦争による被害は甚大だった。経済安定本部が1949年4月に発表した調査では、大半が太平洋戦争によるものである戦時下の銃後(沖縄を除く日本本土)の人口被害は空襲(広島・長崎への原爆投下含む)による死亡が29万7746人、行方不明2万3964人、太平洋戦争による軍人・軍属の被害(1942-48年)は死亡155万5308人、負傷・行方不明は30万9402人とされている。また沖縄戦における死亡者数は沖縄県生活福祉部援護課の資料では軍人軍属と住民の計18万8136人である。
さらに、前記の経済安定本部の1949年の調査では、日本は1935年と比べて資産的一般国富の25.4%を失い、船舶の被害率は80.6%に達した。そして日本は敗戦の結果、米国を中心とする連合国軍に占領されることになり、台湾や朝鮮などの植民地も失った。
敗戦によって多くのものを失った日本はそこからどのように復興していったのだろうか。最終回となる次回では「日本が敗戦によって得たもの」を中心に論じたい。
筒井清忠編『昭和史研究の最前線』朝日新書
牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』新潮選書
牧野邦昭「それでも開戦を選んだ 現代にも通じる意思決定の反省」『Wedge』2021年9月号
牧野邦昭「強大な米国の造船力と兵站 後手に回った日本との「差」」『Wedge』2021年9月号
80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
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