2024年12月3日(火)

近現代史ブックレビュー

2022年11月17日

 近現代史への関心は高く書物も多いが、首を傾げるものも少なくない。相当ひどいものが横行していると言っても過言ではない有様である。この連載はこうした状況を打破するために始められた、近現代史の正確な理解を目指す読者のためのコラムである。
石坂洋次郎の逆襲
三浦雅士
講談社 2970円(税込)

 石坂洋次郎は『青い山脈』によって戦後民主主義を代表する作家として知られる。西條八十作詞の映画主題歌は戦後昭和の日本人で知らない人はないと言ってもよいぐらいであった。そして多くの石坂作品が石原裕次郎、吉永小百合らのスター主演で映画化されたのである。しかし、今日その意義を知る人は少ない。この石坂に本格的にメスを入れ、その文学と思想の全体像を初めて明らかにしたのが本書である。

 著者は言う。『青い山脈』を戦後民主主義的というならば、石坂は戦前『若い人』を発表した段階で、すでに戦後民主主義的だった。『若い人』は女性を日本の主役としている点で『青い山脈』そっくりなのだ。石坂の小説においては、生き方においてあくまでも女性が主体なのであって、男性は女性によって選ばれる客体にすぎない。

 石坂の『美しい暦』など太平洋戦争直前の小説でも戦後民主主義は先取りされており、先進的女性があからさまに描かれていた。戦後民主主義的だったのは石坂だけではない。小説発表直後に映画化を望み、それを喜んで見に行った日本の一般大衆が、実はすでに十分に戦後民主主義的だったのだ。

 戦後占領軍と知識人によって日本人は徹底的に遅れている、民主化せねばならないと思い込まされた。だが、石坂を読むと、日本において民主主義は昔から強く望まれていただけではなく、日本風の民主主義が昔からあったことがわかる。とくに女性の視点に立つとそれがよくわかる。上に挙げた作品が何よりもそれを証している。

 石坂にしてみれば、戦後民主主義と言われようが何と言われようが、それは自前の思想なのであって、呼称は向こうから勝手にやってきたものだ。石坂のこの自前の思想は柳田国男、折口信夫によって開始された民俗学によって大いに助けられていた。

「自前の思想」が生まれた背景

 石坂は、1921年、慶應義塾大学文学部仏文科に進んだが、24年に国文科に移っている。折口が慶應で教え始めるのが23年、柳田が24年。当時、柳田、折口が創始した民俗学は、きわめて新鮮かつ戦闘的なものだった。石坂が折口、柳田に惹かれて国文科に移ったことは間違いない。

 当時、マルクス主義も普及し始めて多くの知識人を魅了していた。すなわち、石坂はマルクス主義と民俗学が日本において活動し始めたほぼ最初期にその中で小説を書き始めたのである。そして、石坂は、一時はマルクス主義に傾いたのだが、当時の教条的マルクス主義に家父長制的なものを見てとり、民俗学に母系制重視を見て親近感を覚えたのだった。

 石坂が『青い山脈』を女の行商の話で始め、女の行商の話で締めくくったのには理由があった。石坂は、自身の母が女の行商を組織して成功したそのおかげで、慶應に進むことができたのである。20世紀初頭の東北では女の行商は移動ブティック、つまり社交場のようなものだった。この母系制的な逞しさ・優しさ・大きさといったものの意義に石坂は気づいたのである。

 石坂は女性・母親を中心とする家族こそが人間社会の芯となっているという。その例はとくに日本には溢れており、民俗学を創始した柳田は婿であり、単身者・折口もその父は婿である。また、戦後一世を風靡した『サザエさん』は、家付き娘の典型のようなもので、家付き娘の民俗学ということでは宮本常一を参照すると日本社会がよくわかるという。ここから先は読者に直接読んでもらうしかない。

 出るべくして出た決定版石坂・日本社会論である。流行作家としか見られていない人の中から大衆・民俗の奥底にあるものを探り当てた稀有の傑作といえよう。

 
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