2022年9月27日(火)

近現代史ブックレビュー

2022年8月18日

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筒井清忠 (つつい・きよただ)

帝京大学文学部長

1948年大分市生まれ。帝京大学文学部長・大学院文学研究科長。東京財団政策研究所上席研究員。専門は日本近現代史、歴史社会学。『昭和十年代の陸軍と政治』(岩波書店)、『二・二六事件と青年将校』(吉川弘文館)など著書多数。

 近現代史への関心は高く書物も多いが、首を傾げるものも少なくない。相当ひどいものが横行していると言っても過言ではない有様である。この連載はこうした状況を打破するために始められた、近現代史の正確な理解を目指す読者のためのコラムである。
昭和ナショナリズムの諸相
(著)橋川文三 (編)筒井清忠
名古屋大学出版会 5500円(税込)

 安倍晋三元首相暗殺事件を考察するにあたっては、過去の歴史の類似事件から問題の始原を探ることが至便であろう。こうした事件や犯人は、いつごろどのようにして現われはじめたのか。

 この点、今度の事件を考えるには大正時代のテロリズムから考察を始めるのがよいと私は考えている。

 大正時代、テロリズムは左右両翼の急進社会運動の手段であった。テロリストとして代表的な人としては、まず皇室を襲撃した虎ノ門事件(摂政宮狙撃事件)の難波大助がいる。

 難波大助は国会議員の息子であったが、「ただブラブラしている」(訊問調書での大助の言)「尊皇家」の父への反発が事件のひとつの動機となったと見られている。大助によると、父は、兄には高い教育を受けさせながら、大助には普通教育しか受けさせず節約勤倹を強制し、そのために大助は国会議員の息子でありながら新聞配達をしていたという。それでいて、父は冗費していると大助は父の仕打ちを深く恨んでいた。

 貧しい生活をしている人々の周辺で生活し、社会主義者の演説会に行くなどした後、幸徳秋水の大逆事件の報道記事を図書館で読んでそれを受け継ぐ決心をし、摂政宮狙撃事件を起こしたのだった。

 難波は共産主義者であることを自認しており、「社会革命(共産主義的革命)を遂行する手段の一つとしてテロリストとなって、皇族に向かってそのテロリズムを遂行することは有効なりと認めてやった」のであった(「難波大助訊問調書」)。

 ただ、皇室が「支配階級」に利用されているから攻撃したのであり、今後の皇室の運命はその態度にかかっているということも言っている。敵は「支配階級」だというわけである。

 この理屈だと、敵が「支配階級」ならば標的は例えば首相となってもよさそうだが、そうはなっていない。このようにテロリストの「動機」というものは実は明瞭なものではなく、裁判の過程で変わることすらある。

 また、幸徳の大逆事件にフレームアップの要素があったことはよく知られているが、そのことと難波が事件に影響を受けたこととは別のことである。

大正の左翼急進主義者から
テロリストが多く輩出された背景

 次に、福田雅太郎・陸軍大将狙撃事件を起こした和田久太郎、古田大次郎がいる。和田と古田はアナキストであり、関東大震災の折のアナキスト大杉栄の殺害は戒厳司令官・福田大将の指揮のもとに行ったとするところからくる狙撃事件であった。

 大杉栄殺害事件は、関東大震災の混乱の中に起きたことで真相がはっきりしないところがあるが、和田らは戒厳司令官福田大将の指揮により殺害したと信じたのである。

 大杉殺害事件の犯人とされた甘粕正彦憲兵大尉は大杉を含めて3人を殺害しておきながら10年の刑と量刑が軽すぎるが、甘粕を讃える減刑嘆願書には数十万人分の署名が集まった上、2万6000円を越す義援金が集まり、結婚を希望する女性と出獄後結婚したという。政治・社会状況がポピュリズム化してくることによって起きた事態と言えよう。

 無期懲役となった福田大将狙撃犯・和田久太郎は、「鳴けよ雁ここは囚屋の空なれば 思うことも遥かなる身に雁遠し」などからなる句集『獄窓から』を残し1928年、秋田の監獄で自殺した。「もろもろの悩みも消ゆる雪の風」が辞世であった。 

 古田大次郎は銀行員刺殺事件・爆弾製造事件も起こしており絞首刑となったが、「囚われの思いを筆に語らいて わが亡きあとのかたみとやせん」と詠った獄中手記『死の懺悔』は死後刊行され増刷を重ねベストセラーとなった。

 大正時代に左翼急進主義者にテロリストが多く出た背景にはロシアの革命運動にそれが多かったということがあった。

 難波は次のように言っている。"1921年から雑誌『改造』を読み出し、急速に社会主義化した。『改造』4月号は発売禁止となったが、巻頭の河上肇の文章が原因と思われる。そこには『露西亜(ロシア)のテロリストの悲壮な行為が自分の胸に迫るまで痛烈に書いてありました』。そしてロシアのツアーリが行う暴政は日本にそのままあてはめられるように思われ、『専制に対する当然な報復としてテロリストが起こるのは当然の事であると考えました』。ロシア革命はもう成功しておりその成功のかなりの部分はテロリストに負うところが多いと思われ、この河上の文章が『自分の思想を動かした』”(「難波大助訊問調書」。難波については、井上章一『狂気と王権』講談社学術文庫がある)。

 難波は言ってないが、河上の文章はニコライ2世を暗殺しようとしたテロリストを扱っている。

思想・文学青年を魅了しやすかった
テロの国際的連鎖

 ロシアの革命運動中、最もテロを駆使したのは、ナロードニキ運動の後継のひとつとして現れた左翼社会革命党(エスエル)戦闘団であり、その中心メンバー・サヴィンコフ(ロープシン)はそういうテロリストを代表する人物であった。

 彼は革命戦術としてテロを積極的に行使し、多くのインテリテロリストを権力に対し送り込み、内務大臣プレーヴェやモスクワ総督セルゲイ大公暗殺などを成功させた。その体験をもとに書いたのが『テロリスト群像』『蒼ざめた馬』である。

 「わたしは自分に問う。なんのために殺したのだ?死によってなにを得たか?(中略)いまわたしは憂うつなのだ。わたしは彼を殺してしまっただけではない、愛をもまた殺してしまった。こうしてかなしい秋は愁いをふかめ、枯葉が舞い散る。うしなわれし日々の、わたしの枯葉が」(ロープシン・川崎浹訳『蒼ざめた馬』<岩波現代文庫>202頁)。

 サヴィンコフの著作はカミュらの現代文学に影響を与えたが、サヴィンコフをナンバー2とした左翼社会革命党(エスエル)戦闘団の中心人物アゼーフは、実は権力のスパイだった。テロルをめぐる話は幾重にも錯綜しており、テロリストたちは憂愁に満ち、虚無的ですらあった。サヴィンコフは結局、反ボリシェビキ政権の側につき、ボリシェビキ政権と戦い逮捕され自殺する。

 以上でわかるが、ロシア革命前後の当時、テロや暴力革命はロシアで成功したということで少なからぬ学生・知識人の間では讃美されており、国際化して日本にもたらされたのだった。テロの国際的連鎖である。そして、難波の調書やサヴィンコフの著作にあったようにそこには悲壮感が立ちこめ、とくに思想・文学青年を魅了しやすいところがあった。

 したがって、テロリストというのは「哀しい人」たちと理解されることが多く、石川啄木は「われは知る、テロリストの かなしき、かなしき心を」と詠っている。

 そして、その背景には普通平等選挙制がないということが大きかった。普通平等選挙制がないと、社会運動は、言説により多数の民衆を味方につけ現政権を倒すという方向よりも、暴力により一挙に政権を倒すという方向になりやすいからである。日本でも普通平等選挙制が実現すると、議会制民主主義による社会主義の実現を目指す社会民主主義者が増えてきて暴力による方向は後退してくることになる。

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