高田保馬は近代日本を代表する社会学者・経済学者である。社会学・経済学にノーベル賞がなかったので仕方ないが、あれば受賞できた人であった。よく知られたノーベル経済学賞の有力候補者・森嶋通夫が高田の高弟であったことが一つの証左となろう。本書はその自伝である。
高田は佐賀県に生まれた。「中学五年の早春のある夕ぐれに落日を仰いでの感激をかつてのべたことがあるが、それは弱き者のために死のうということであった。そこで中学の交友会雑誌にのせた論文は貧乏に関するものであった」。儒教の平等主義思想に影響されさらに幸徳秋水の『社会主義神髄』を読んだ。
第五高等学校に学ぶが、五高の雑誌に社会主義についての論考を載せており、全国の高校の雑誌の中でも最も早いものであった。後の超国家主義者・大川周明が同級生であったが、大川も当時は幸徳らの『平民新聞』を読んだ社会主義者であった。また、重光葵、下村湖人が同級生にいた。
栗野事件が起こる。そこで高田とともに活躍したのが大川周明であった。二つの事件が錯綜していたというのが高田の説明である。「いわゆる栗野事件といわるるものは、二つの事件をふくんでいる。一つは不公平なる転学許可事件である。しかもそれは校長の責任にかかる事件である。二つは教頭排斥事件である。前者の進行中に大川氏は『この機に乗じて起とうではないか。昨夜、横井小楠先生の墓に参り起否いずれにすべきかを伺ったところ地下より声あり、起てといわれた。ここに立ちあがるゆえんである』。大川氏の『この機に乗じて』運動は完全に成功した。これは問題が転学問題という学校側の黒星と結びついたから、文部省自体も両成敗的に学生を処分しえなかったであろう。大川氏の昭和日本の動乱における活動はこの戦術に負うところ、少なくないと思う」。