2024年4月19日(金)

近現代史ブックレビュー

2021年12月16日

 近現代史への関心は高く書物も多いが、首を傾げるものも少なくない。相当ひどいものが横行していると言っても過言ではない有様である。この連載はこうした状況を打破するために始められた、近現代史の正確な理解を目指す読者のためのコラムである。
「歴史の黄昏」の彼方へ
危機の文明史観

(著)野田宣雄 (編)竹中 亨・佐藤卓己・
瀧井一博・植村和秀 千倉書房  6160円(税込)

 京都大学で西洋史・政治史について教鞭をとられていた故野田宣雄氏の主要著作を集めた一巻本選集である。氏の教えを受けた4人の教え子たちが歴史・教養・政治・宗教の4つの分野にわたって著作をまとめている。カバーしている領域は広く、どれについても傑出した歴史家であった氏の力量を示すのにふさわしい書籍である。ここでは紙幅も限られているので、その中から「教養」「政治」という二つのテーマについて記した文章を紹介し、この著作の意義の一端を明らかにしておこう。

教養と宗教の関係性

 教養についての野田氏の主張を評者なりにまとめると次のようになるだろう。

 それは、ドイツの「教養市民層」の問題である。19世紀から20世紀にかけてのドイツの「教養市民層」に発する「教養人」は、人文的教養を身につけることによる人格の陶冶・完成を目指すものであった。ただ、マックス・ウエーバーなどが明らかにしたように、各個人の調和的完成を人生の目標とするその思想は、現世的であって、来世に救済があるとする宗教の立場とは基本的に相容れないものである。「生」に意味を与えるのは神のような何か超越的なものだとするのが「宗教」だからである。

「教養」それ自体はどこまで行っても人格の完成を目指し続けるものであって「生」自体に外から意味付けを与え得るものではないから、それは永遠の未完成が義務づけられたものである。ここからは、死に面した時人は「未完成」に満足できるだろうかという問題も生じ得るが、いずれにせよ、「教養」に入りこんでいくことによって、彼らはますます現世的・世俗的・合理的となり、来世的な超越への関心はいっそう希薄となる。そしてそれは結局「宗教」を無効化していく。とりわけ「教養」の生み出す「科学」は「宗教」に懐疑的・否定的な人間を生み出し、結局彼らは内心宗教への軽蔑心すら持つことになるだろう。

ヒトラーやナチスを生んだもの

 そして、「教養人」たることの第一義は大学を出ていることであったから、大学と大学人の評価は非常に高いものとなる一方、大学を出ていない人間の評価は極めて低いものになる。こうして、社会は「教養人」と非「教養人」とに二分されたものになり、後者は低く見られる存在となる。言い換えれば、エリートたる「教養人」は宗教を持たずに、「教養」だけに「生」の充足を求める中、一般の人間はそうはいかないまま放置された状態となると言ってもいい。いや、低く見られ放置された一般大衆は何らかの宗教の代替物を求めるしかなくなるであろう。

 こうして、内心宗教への軽蔑心を持つ教養人に対して放置された一般大衆の間には大学・教養市民層への敵意すら広まっていくことになる。ヒトラーやナチスを準備したのはこれではないか。

 ヒトラーが演説でしきりに頭脳中心の「教養市民層」を批判・攻撃し、新しい形での彼なりの能力主義によるエリートの編成替えを主張していることはこの点に符合する。

 ゲーテやカントの国になぜヒトラーやナチスが出たのかと言われることがあるが、ゲーテやカントの国だからこそヒトラーやナチスが現れたのではないか、というわけである。この問いかけは大きく、明治以来の日本のエリート層も深くこの「教養」の影響を受けているから、近現代日本も含めて多くの問題がここから派生することになる。

 評者の見解については、野田氏に触発されて書いた書『「日本型」教養の運命』(岩波現代文庫)に詳しいので参照されたいが、現代日本においても、知識人が「教養」として欧米発の知識人向きの言説を国民全体の中で見れば狭いサークルの中で周流させることを繰り返しているようであれば、彼らは孤立し一般大衆の間には大学・知識人層への敵意が広まって来ているということがあるかもしれない。だとすれば、事態はあまり変わらないとも言えよう。この点、日本の欧米思想研究の盲点を突いたコラム「フッサールはわからない」も示唆的であることを付言しておこう。


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