困難な運命でも貫いた「忍従即克服」
経済学に関しては、日本ではじめての本格的な近代経済学の創始者なのであった。高田と親しかった左右田喜一郎は「経済学は学問ではない。カントの研究をどこまでも進めたい」と言っていたというから、経済学を学問と考えない人も少なくなかったことがわかり茨の道であった。
しかし、近代経済学は高田を軸にして発展したのである。1971年に本格的近代経済学者として初めて文化勲章を受章した
しかし、大正から昭和にかけてはマルクス経済学も強かったので河上肇、櫛田民蔵など代表的なマルクス経済学者との間に激しい論争も展開された。相互に高め合ったわけであるが、この点について高田は次のように言っている(要旨)。
「日本の経済理論は輸入学問であった事は自然科学と変わりないが、自然科学は物の裏付けがあるだけに早く吸収された。ところが社会科学においては理論と政策、理論と規範がごっちゃにされやすくしかも人間の世間的興味が政策に惹きつけられるから理論を理論として理解しようとする努力が弱くなる。限界革命は1880年に完成しているが、日本での理解者は少なく1930年まで学会の常識となるに至っていなかった。そうして時代の人道主義的潮流に基礎づけられわかりやすいマルクス主義経済学の強い影響力があった。精密でない分、早わかりで便利なので難解な限界理論よりも人々はそれ惹きつけられて行った。それは時代思想の大勢ですらあった。この風潮に抗して理論の孤城を守るという西欧理論家には思いもかけぬことが自分の身には課せられたが、これも運命であって運命にはあくまで忍従するしかない。忍従即克服である」
京大では著名なマルクス経済学者・河上肇の後任だっただけに、講義には「反動教授」を「袋だたきにしてやれ」という左翼学生が大勢待ち構えていたが、講義が進むにつれ勉強せねばついていけなくなりそうしたムードは消えて行ったという。
ともあれ移り変わりが激しく時代の流行に押しながされやすい日本の学界・思想界で近代経済学を確立していった高田の苦闘が偲ばれよう。
短歌に滲む愛らしい人柄
研究者のあり方について、広島高等師範学校にいた時、同僚の間で尊敬されていた西晋一郎の言葉が励みになったとして以下の言葉を記録しているのも忘れ難い。「地方の学校にいると、その時代、時代の学問の先端の動きを追求して行くことはできぬ。しかし都会の学者はこの波につれて敏感に動くために理解が皮相的になり根本をつかむことを忘れ、底力を養えぬうらみがある。これに反して地方にいると、ややもすれば刺激を失い学問的努力を怠るが、それは態度が真面目でさえあると避けえられる。もちろん時代の波にのって人気を集めるという芸当はできぬが、できぬがゆえにこそゆっくりクワを深く下ろして学問の根底をつかむという本当の仕事ができる」。
高田は、与謝野鉄幹・晶子の『明星』から出発した歌人でもあり宮中御歌会召人にもなっている。「小さきは 小さきままに 花咲きぬ 野辺の小草の 安けさを見よ」は大量の著書・業績の著者とは思えぬ愛らしい人柄を偲ばせる短歌である。
本書は高田を知るためのまたとない好著で、丁寧な注解が付いていることも読みやすくしているが、年表があった方が初心者には良かったのではないかとも思われた。それにしても、こうした本の出にくい時代、よくぞ出版された編者と出版社の労を多としたい。
日本企業の様子がおかしい。バブル崩壊以降、失敗しないことが〝経営の最優先課題〟になりつつあるかのようだ。しかし、そうこうしているうちに、かつては、追いつけ追い越せまで迫った米国の姿は遠のき、アジアをはじめとした新興国にも追い抜かれようとしている。今こそ、現状維持は最大の経営リスクと肝に銘じてチャレンジし、常識という殻を破る時だ。