2024年12月22日(日)

田部康喜のTV読本

2024年12月22日

 読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が19日午前2時、肺炎のため都内の病院で亡くなった。最大1000万部の日本最大の新聞経営者にして、戦後直後から政界をはじめ幅広い分野で影響を与えてきた、渡辺氏は最期までジャーナリストであり続けた。

渡辺恒雄氏は最期まで主筆であり、ジャーナリストであった(産経新聞社)

 1950年に読売新聞に入社してから吉田茂から最近の岸田文雄に至る、歴代の首相に影響を与えてきた。「棺(かん)を蓋(おお)いて事定まる」――。人の評価はその死によって定まるといわれる。家族による葬儀や後日のお別れの会を前にして、渡辺氏のあまりにも複雑にして多面的な活動について論じるのはいささか早計ではある。

 しかし、渡辺氏の死によってひとつの時代が終わったことは間違いないだろう。それはどんな時代だったのか。「紙」の時代からSNSなどのインターネットを飛び交う言説の急速な増加とその影響力は増すばかりである。

変わった政治記者の〝形〟

 政治記者の在り方も、渡辺氏ように政治家の懐に飛び込んで、信頼を得るどころか組閣や党の人事にまで意見を求められる政治記者は、おそらくこれから小・渡辺は現れても、渡辺氏あるいはそれをしのぐ記者は現れない時代になっているのではないか。それは、ドイツやフランスなどでもみられるように「多党化」の流れのなかで、政権党のみを重視した取材体制はもう通用しないからである。

 政治部、経済部、社会部……などの記者のなかで、政治部記者だけは「政治」分野のプレイヤーとされてきた。政権党の派閥の担当者は、自ら取材している派閥を「村」と呼ぶことがある。

 派閥の長のために取材してきた内容を上げることもある。あるいは、派閥間を横断するメッセンジャーとなることも。政治家の情報を書かずに自らの情報と握り合うこともある。

 つまり、「政局」を作ってきたのである。派閥担当は他の派閥担当と情報交換することはほとんどない。政治部記者は派閥が権力を握るかどうかによって、社内の出世にも絡んでくる。


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