2024年12月22日(日)

田部康喜のTV読本

2024年12月22日

 主筆室に飾られていた、友人でもあった首相の中曽根康弘氏が渡辺氏の墓碑に書くために、揮毫(きごう)した書が映し出される。「終生一記者を貫く 渡辺恒雄之碑」と。

「主筆」の椅子にこだわった理由

 渡辺氏の生涯に影響を与えたのは、学徒出陣後に東大に復帰して入党した共産党の影響がある、と筆者は考えてきた。大学内の共産党の支部である「東大細胞」のキャップとなって、路線の違いから党に除名されるまで2年間を過ごした。

 キャップは、約200人の共産党員の学生の頂点に立つ。戦後の世相のなかでは、労働運動や学生運動などのなかでは、仰ぎ見られる存在だった。

 「東大細胞」の“同士”には、セゾングループの創始者である堤清二氏や、西友の実質的な創業者ともいえる、高丘季昭氏らもいた。

 『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』の記述によると、渡辺氏が共産党に違和感を抱いた理由を明らかにしている。

 「共産党本部の玄関を入ったところに大きなビラが貼ってあって、『党員は軍隊的鉄の規律を厳守せよ』と書いてあるの。俺は軍隊が嫌いだからやってきたのに、共産党も軍隊かと思ったね」「(カスリーン台風・47年)相当被害が出て、多くの人が死ぬんですよ。そういう時に党の東大細胞の会議があって、そこに中央委員が来て演説する。『もし全国民がこういう被害で飢えれば、人民は目覚める。共産主義者になる。人民の目を覚まさせて共産主義にするのには、人民が飢えたときでなくては駄目なんだ』」と。

 いわゆる「窮乏化理論」つまり、人民が窮乏化するほど革命が起きるという共産主義の理論である。渡辺氏はこれに嫌気がさして脱党を決める。

 青春時代に洗礼を受けた思想、信条から抜け出すのは容易ではない、と筆者は考えている。筆者に先行する“団塊の世代”は、卒業とともに当時流行っていた長髪をきれいさっぱりと散髪して、企業戦士となって学園をあとにした。しかし、マルクス主義の洗礼を受けた人のなかには、いまだにさまざまな反権力、反対運動に加わっているひともいる。

 渡辺氏が最後までこだわった「主筆」の椅子は、ある意味で社論を渡辺氏が牛耳る。つまり、独裁ともいうべき地位である。共産主義における「民主集中」の原則つまり最終的にはひとりが決定をくだす組織原理と同じではないだろうか。

「大連立」の仲介

 政治記者として数々の特ダネをものにしてきた、渡辺氏にも「政局」感がすべて成功したわけではない。

 参院選挙において、与党の自公が議席の半数を失って、与党の主要な法案や人事が通らなくなった2007年。自民党総裁・首相の福田康夫氏と、当時の民主党の代表だった小沢一郎氏がいったんは「大連立」で合意した。これを仲介したのが、渡辺氏だった。

 「NHK・ニュースウォッチ9」のインタビューのなかで、当時を振り返った小沢氏は次のように語った。

 「仲介役みたいなことをしてくれたのが、渡辺さん。一時代の政治記者を代表する人物、優れた人物だった」と。

 「大連立」は、共産党が欧州のリベラル政権などに参加した際にとった戦術の「民主連合政権」を思わせる。つまり、共産党は日本でいえば、法務相や国家公安委員長などの司法、諜報機関のトップのポストをまず得て、連合政権の相手を徐々に取り崩す戦略である。


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