この直後、8月14日に米国のルーズベルト大統領と英国のチャーチル首相が会談して大西洋憲章(当時日本では「英米共同宣言」と呼ばれた)が発表された。大西洋憲章では特に経済面で経済協力の進展(第5項)、恐怖と欠乏からの自由(第6項)、航海の自由(第7項)を謳っており、特に第4項では大国、小国、戦勝国、敗戦国を問わず、一切の国が経済的繁栄に必要な世界の通商および原料の平等な利用を享有できるように努力することが明記されていた。
大西洋憲章はその後の国際連合に基づく国際秩序の基礎となっていくが、経済制裁を受けた直後の日本ではこうした英米の掲げた理念は真剣に受け止められず、逆に「空虚」「偽瞞」と見なされ強い反発を引き起こす。日本の軍事行動を抑えようとして行われた英米の経済制裁が、逆にその理念とのギャップを日本側に感じさせる結果となってしまった。
米英と比べ全く準備ができていなかった日本
ただでさえ日本の国力が長引く日中戦争で消耗しているなか、米国の石油禁輸措置を受けた日本の石油備蓄は1~2年しかないこと、また一方で石油を確保するために開戦するとしても米国の国力は強大であることは陸海軍内外の多くの調査報告で明らかになっていた。
1941年8月以降の多くの人の主観的な認識は、「開戦しなければ確実に石油がなくなってジリ貧となり戦わずに屈服するが、開戦すれば高い確率で敗北する(ドカ貧となる)」というものであった。そうした追い詰められた状況の中では、「低い確率ではあるがドイツが短期でソ連と英国を屈服させ、日本が東南アジアの資源を獲得して国力を強化すれば、戦争準備が間に合わない米国は交戦意欲を失い、日本に有利な講和に応じるかもしれない」という希望的観測が過大評価されがちになる。そうすると希望的観測を正当化するためにさまざまな情報のうち都合の良いものが取捨選択されて開戦の材料とされてしまう。
世論やメディア、議会で対米強硬論が圧倒的になる中、東条英機首相は1941年11月17日に議会で施政方針演説を行い、米国による経済制裁を「敵性行為」として強く批判し、第三国が日中戦争の完遂を妨害しないこと、経済制裁を解除すること、欧州の戦争の東アジアへの波及を防止することを目標とする「外交三原則」を貫徹する強い決意を表明するが、11月26日(日本時間27日)の「ハル・ノート」は事実上それを拒否するものだった。日本は現実的な問題としては石油を確保するために、理念としては英米中心の国際秩序に対抗する「大東亜共栄圏」の構築を目指し、ドイツの勝利に期待して太平洋戦争へと進んでいく。
ただ、これまで見てきたように、日中戦争に捉われながらある意味では「場当たり的」に南進を進め、結果として英米と開戦した日本と、第一次世界大戦を経験し、1939年の第二次世界大戦勃発後に英国救援の準備を着実に進めてきた米国とでは、国力の違いもさることながらその準備にも大きな差があった。