2025年1月4日(土)

Wedge REPORT

2025年1月2日

 太平洋戦争の終戦から80年となる2025年。世界では、ロシア・ウクライナ戦争やガザ紛争、シリアのアサド政権の崩壊など、武力衝突が起きております。

(Wirestock/gettyimages)

 日本はなぜ戦争へと進んでしまったのか、戦後の日本はどのような歩みとなったのか――。戦争や平和について今一度考えるためには、近現代史の視点が重要です。

 近現代史の視点を読み解く記事を紹介します。

<目次>

・「成金時代」に浮かれる戦前日本が直面した『貧乏物語』
戦前経済史講義 なぜ日本人は戦争への道を選んだのか(1)(2023年5月1日)

・明治版「防衛3文書」から見る日本人の〝精神主義〟
満州事変に至る道 大日本帝国陸軍の素顔(1)(2022年12月6日)

・大谷翔平活躍の中、なぜアジア人差別が横行するのか
100年続く米国の病「黄禍論」(1)(2022年10月28日)

・山本五十六が軍縮会議への関心を失った海軍の人事
山本五十六:その実像への接近の試み(第1回)(2021年12月29日)

・【世界が注目】「日本のいちばん長い日」「肉弾」…“戦中派”映画監督が描き続けた戦争の生と死、ETV特集『生誕100年 映画監督 岡本喜八が遺(のこ)したもの』(2024年12月19日)

・【悲惨だった朝鮮半島】戦後79年、知られざる歴史 南北で分けた終戦直後の在朝鮮日本人たちの運命(2024年8月15日)

「成金時代」に浮かれる戦前日本が直面した『貧乏物語』
戦前経済史講義 なぜ日本人は戦争への道を選んだのか(1)(2023年5月1日)

1917年、横浜市にあった浅野造船所(現・JFEエンジニアリング)。設立間もないにもかかわらず大戦景気により急成長していた(Bettmann/Gettyimages)

 日露戦争後、巨額の外債の支払いなどで国際収支の危機に直面していた日本にとって、第一次世界大戦の勃発(1914年)はまさに「天祐」(天の助け)であった。大戦勃発当初は経済混乱が起きるが、1915年後半に入ってからは、多くの軍需物資を必要とする英仏露など欧州連合国向けの輸出や、中立を保ちながら連合国への輸出を激増させていた米国への輸出が急増した。大幅な輸出超過により日本はそれまでの債務国から債権国へと転換した。

 また国際的な船舶需要急増により造船業が発達し、欧州からの輸入が困難になったことで機械工業、化学工業、鉄鋼業など重化学工業も国内代替化が進み急速に発展した。既に発展していた紡績業や製糸業など繊維産業も、欧州からの輸出の急減により、その穴を埋める形で日本からの輸出が急増した。

 こうして第一次世界大戦は日本経済の工業化を大きく促進した。また工業化の進展により京浜、京阪神の工業地帯には多くの労働者とそれを相手とする小売商などが集まるようになり、都市化も加速することになった。

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「成金時代」に浮かれる戦前日本が直面した『貧乏物語』
戦前経済史講義 なぜ日本人は戦争への道を選んだのか(1)

明治版「防衛3文書」から見る日本人の〝精神主義〟
満州事変に至る道 大日本帝国陸軍の素顔(1)(2022年12月6日)

日本海海戦で沈没するロシア戦艦。日露戦争後も、日本軍はロシアを警戒し続けた(MARY EVANS PICTURE LIBRARY/AFLO)

 明治維新以来、日本にとって最大の安全保障上の脅威はロシア帝国であった。日露戦争(1904~05年)はその宿敵を打ち破り、日本を一躍列強の一員に押し上げた転機となった。しかし、帝国陸海軍が安全保障に関して安息することはなかった。

 日露戦争後、帝国陸軍は戦後の内外情勢に対応すべく新しい安全保障政策を模索することになる。陸軍が憂慮していたのはロシアとの再戦であった。特に陸軍長老の山県有朋はロシアの復仇戦を恐れていた。山県は日露戦争を参謀総長として指導した経験から、戦争末期、日本の戦力が限界に達していたのに対し、ロシアにはまだ余力があったこと、したがって勝利が薄氷を踏むようなものであったことを良く理解していたのである。

 山県の主導の下、1907年、陸軍は海軍と合同で『帝国国防方針』を策定する。同方針は国家戦略・軍事戦略の概略を定めた「日本帝国ノ国防方針」、作戦用兵の基本方針を定めた「帝国軍ノ用兵綱領」、そのために必要な兵力量を定めた「国防ニ要スル兵力」の三文書から構成される。この『帝国国防方針』策定までは、日本は国家戦略としての安全保障政策を持っていなかった。その意味で、同方針の策定は時宜を得たものだったと言えるだろう。

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満州事変に至る道 大日本帝国陸軍の素顔(1)

大谷翔平活躍の中、なぜアジア人差別が横行するのか
100年続く米国の病「黄禍論」(1)(2022年10月28日)

2021年、相次ぐアジア系市民へのヘイトクライムに対し、全米で反対デモが巻き起こった(REUTERS/AFLO)

 エンゼルスの大谷翔平選手の活躍に、米大リーグは沸いている。大リーグの歴史は人種差別の歴史とは無縁ではないが、彼の桁違いの活躍を、人種を超えて皆が絶賛している。ただ、球場の外ではそのような訳にはいかないようだ。コロナ禍において、米国全体で「アジアン・ヘイト」の嵐が吹き荒れている。アジア人というだけで、ただ信号待ちをしていたり、地下鉄構内を歩いているだけで、殴られたり蹴られたりするのである。散歩していただけなのに突き飛ばされて命を落とした人までいる。ただ、このようなアジア人差別はコロナ禍を原因として最近始まったことではない。

 19世紀末の欧州で誕生した黄禍論という考えがある。欧州の人々から黄色人種と呼ばれた日本や中国といった東アジアの人々が、その数に任せて白人国に襲い掛かり、世界の覇権を握るのではないかという説である。注目すべきは、そのような考えが、欧州列強が無敵であった19世紀末に登場したことだ。そこには1冊の書物と2人の人物が大きな役割を果たしていた。

 1冊の書物とは、1893年に出版されたチャールズ・ピアソンの『国民の生活と性質』である。西洋文明が世界を席巻していた19世紀末に、西洋没落論を唱えて大評判となった書物だ。ピアソンは、英オックスフォード大学で学びロンドン大学キングスカレッジで現代史を講じた歴史家で、後に豪州に渡って文部大臣も務めた人物である。この書物の中でピアソンは、これまで白人によって虐げられてきた有色人種が、近い将来、欧州を追いやるようになると主張した。彼が特に危惧したのは、中国の人口の多さであった。豪州における中国人の急増が彼に危機感を抱かせていた。中国がその人口の多さを伴って軍事大国化して欧州にとって脅威となるというのである。

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100年続く米国の病「黄禍論」(1)

山本五十六が軍縮会議への関心を失った海軍の人事
山本五十六:その実像への接近の試み(第1回)(2021年12月29日)

山本五十六(出所)東亜建設聖戦史大東亜戦争写真史大観

 太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官、また三国同盟締結交渉時の海軍次官として知られている山本五十六の名が、海軍部外ではじめて高まったのはいつであろうか。昭和初期の新聞や雑誌の記事を参照すると、それは1934年に開催された第二次ロンドン条約予備交渉(予備会商)の海軍主席代表に任命され、米英代表と3カ月にわたる交渉を行ったときから、と考えられる。

 この予備交渉が開催されたのは、30年に締結されたロンドン海軍軍縮条約の有効期限が5年間であり、条約が失効を迎える期日の1年前に、条約国が以後の軍縮のあり方について討議することが定められていたことによる。この交渉において、日本側全権は米国・英国が唱えた比率主義(ワシントン・ロンドン軍縮会議条約時に日英米の海軍力を、艦艇のトン数の比率によって規定したもの)に反対して、「列国共通の兵力最高限度を決定し、その範囲内で不脅威不侵略の兵力量を協定すること」などを主張した。

 この当時、山本については「英米代表を向ふに廻はし、堂々三ケ月余りの論陣を張り、比率主義廃止、パリティ要求の為めに戦って重任を半ば果し」(『文藝春秋』1935年3月号)と日本国内一般で評価されたものの、彼の会議における主張は米英両国代表の容認を得られず、交渉は行き詰まって12月20日に休会となり、その後再開されることなく山本らは翌年、1月下旬に帰国の途に就いた。

 この間に日本政府が、22年に締結されたワシントン軍縮条約の廃棄通告を12月3日の臨時閣議で正式に決定し、29日に駐米大使を通じて米国にその通告がなされ、36年の末をもって同条約が失効することとなった。

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【世界が注目】「日本のいちばん長い日」「肉弾」…“戦中派”映画監督が描き続けた戦争の生と死、ETV特集『生誕100年 映画監督 岡本喜八が遺(のこ)したもの』(2024年12月19日)

 ETV特集『生誕100年 映画監督 岡本喜八が遺(のこ)したもの』(12月7日)は、戦争による生と死を描き続けた、奇才あるいは鬼才と呼ばれたひとりの監督に光をあてた、上質なドキュメンタリーである。日本映画を代表する監督は、小津安二郎や成瀬巳喜男らばかりではない。世界はいま岡本喜八を発見しつつある。

(『生誕100年 映画監督 岡本喜八が遺(のこ)したもの』ホームページより©写真提供 喜八プロダクション)

 岡本喜八作品は、4Kデジタルリマスター版の制作も進められ、欧米などでの販売を前提としている。生涯で39本の映画を撮影した喜八は、そのうち半分が戦争にからんだ映画である、と語っている。

 米軍による日本本土に対する空襲が本格化した1945(昭和20)年の4月、のちに映画界の奇才あるいは鬼才と呼ばれた、岡本喜八は旧豊橋陸軍予備士官学校に入校した。岡本ら先遣隊がこの月末に予備士官学校に到着した直後、多数を失う米軍の攻撃を受けた。

 喜八は偶然にも死を免れた。しかし、周囲には片腕、片足を失った兵士や頸動脈から出血している兵士らで阿鼻叫喚の地獄絵となった。

 「戦争体験としてはまことにチャチだった。しかし、青春体験としては、それなりにまことに強烈だった。まこと生死は紙一重」と、喜八はエッセイにその時の衝撃を綴っている。

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【悲惨だった朝鮮半島】戦後79年、知られざる歴史 南北で分けた終戦直後の在朝鮮日本人たちの運命(2024年8月15日)

 ある韓国関係の会合で日本の敗戦に話題が及んだとき、「満州に残された日本人の惨状は知っていますが、朝鮮半島で暮らしていた日本人はどのような運命に見舞われたのでしょうか」と質された。

 この疑問は、多くの日本人に共通するものだろう。満州での惨事はさまざまな証言や資料があるが、36年間にわたり日本が支配した朝鮮半島で、日本人がどのような運命に見舞われたのかは情報が少ない。

 そこで本稿では、韓国・ハンギョレ新聞の元東京特派員である吉倫亨氏が著した『1945年、26日間の独立 韓国建国に隠された左右対立悲史』( ハガツサブックス)と元中日新聞論説委員の城内康伸氏が著した『奪還 日本人難民6万人を救った男』(新潮社)の内容を中心に、朝鮮半島に残された日本人の運命を紐解いてみたい。

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【悲惨だった朝鮮半島】戦後79年、知られざる歴史 南北で分けた終戦直後の在朝鮮日本人たちの運命

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