太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官、また三国同盟締結交渉時の海軍次官として知られている山本五十六の名が、海軍部外ではじめて高まったのはいつであろうか。昭和初期の新聞や雑誌の記事を参照すると、それは1934年に開催された第二次ロンドン条約予備交渉(予備会商)の海軍主席代表に任命され、米英代表と3カ月にわたる交渉を行ったときから、と考えられる。
この予備交渉が開催されたのは、30年に締結されたロンドン海軍軍縮条約の有効期限が5年間であり、条約が失効を迎える期日の1年前に、条約国が以後の軍縮のあり方について討議することが定められていたことによる。この交渉において、日本側全権は米国・英国が唱えた比率主義(ワシントン・ロンドン軍縮会議条約時に日英米の海軍力を、艦艇のトン数の比率によって規定したもの)に反対して、「列国共通の兵力最高限度を決定し、その範囲内で不脅威不侵略の兵力量を協定すること」などを主張した。
主張は米英に認められず
この当時、山本については「英米代表を向ふに廻はし、堂々三ケ月余りの論陣を張り、比率主義廃止、パリティ要求の為めに戦って重任を半ば果し」(『文藝春秋』1935年3月号)と日本国内一般で評価されたものの、彼の会議における主張は米英両国代表の容認を得られず、交渉は行き詰まって12月20日に休会となり、その後再開されることなく山本らは翌年、1月下旬に帰国の途に就いた。
この間に日本政府が、22年に締結されたワシントン軍縮条約の廃棄通告を12月3日の臨時閣議で正式に決定し、29日に駐米大使を通じて米国にその通告がなされ、36年の末をもって同条約が失効することとなった。
兵力量の最大限度設定も、およばず
では日本海軍や政府、そして山本はこの会議にどのような姿勢で臨んだのであろうか。まず日本海軍が組織全体の意向として追求した目標としては、対米7割の規模での海軍力(主力艦・補助艦の保有トン数)が認められなかったワシントン・ロンドン両条約からの脱却を、この34年の時点で意図していたことは確実である。
ただし、同年9月に閣議で決定された「帝国代表に与ふる訓令」を見ると、「帝国政府の根本方針」として「大海軍国間に於ける軍縮の方法として、各国の保有し得べき兵力量の共通最大限度を規定するを根本義とす」という、米英と同等の兵力量の上限を要求するという主張が掲げられたものの、ワシントン条約の廃棄(すでに閣議で決定済みであり、不可避の情勢であった)によってただちに、いわゆる無条約状態に入ることまでは、海軍部内(そして政府内)での共通見解となってはいなかった。
阿川弘之が『山本五十六』(新潮文庫)で述べていることであるが、「日本がワシントン条約を廃棄して、新しく取りつけようとした軍縮協定とはどういうものであったかというと、それは不脅威不侵略の原則の確立、その不脅威不侵略の方式は、各国の保有兵力量の共通最大限を規定したい―、つまり、日英米、或(あるい)は仏伊とも、海軍兵力をどの程度まで持っていいかという共通の限界を定めて、その線は各国平等化してほしい、そのかわり、それを出来るだけ低いところに引いて、攻撃的兵器は廃棄し、防禦的兵器の充実にお互い力を入れようということであった。……山本は訓令の線に副(そ)うて何とか英米との間に妥協点を見出し新条約締結の基礎作りをしたいと、その努力をしたのであった」。
この部分の描写は、山本に随行して交渉に臨んだ関係者の証言や記録に基づいており、史実に即した説得力に富む記述といえよう。