2024年12月3日(火)

Wedge REPORT

2021年8月17日

山本五十六像のある新潟県長岡市の山本記念公園。山本の生家跡につくられた (AFLO)

 1940年の夏は、日本がドイツとイタリアとの三国軍事同盟の締結に踏み切り、イギリス・アメリカとの対立が決定的となった重大時期であったが、その当時、東京にある駐日イギリス大使館では、駐日大使ロバート・クレーギー(1883-1959)と、館員ジョージ・サンソム(1883-1965)との間で対日政策をめぐる根本的な意見の対立があった。

 クレーギーは少年期を日本でしばしば過ごし、1920年代から30年代にかけて開催された数々の軍縮会議において日本側全権団と親しく交流した経験を持つ、いわゆる「知日派」外交官と目されていた。そして駐日大使として37年に着任して以降、英米との友好関係維持を望み国際協調的な対外路線を追求する、日本国内の「穏健派」に着目した。クレーギーは、彼ら「穏健派」を支援し、かつ、イギリスが日本に対してある程度譲歩することによる、日英間での和解の可能性が開かれることを期待した。

 太平洋戦争開戦により本国に帰国してから彼が外相にあて43年に提出した報告書は、「米英両政府が柔軟な対日政策を実施すれば、太平洋戦争の回避は可能であった」という趣旨のもので、一読したチャーチル首相の憤激を買ったと言われている。

 他方、サンソムは初来日の1904年から40年までのほとんどを駐日英国大使館で勤務した外交官であったが、この時代の日本の動向分析にとどまらず、前近代の時代を含む日本の政治・経済・文化の研究においても第一人者的存在と高く評価されていた。『日本文化小史』(1931年)、『西欧世界と日本』(1950年)をはじめとする、彼が著した一連の著作は、西欧の日本史研究を代表する名著として、西欧の日本研究者のバイブル的存在となったと言われる。

 そのサンソムは、1940年前後の日本政府に対して厳しい批判的態度を貫いた。彼は「穏健派」が戦争を阻止する力を持っているとは全く考えず、クレーギーが追求した対日宥和路線に対して辛辣な批判を行い、両者は決定的に対立した。その結果、サンソムは40年8月に離日し本国に帰国している。

駐日英国大使館員の見た
日本の失敗の本質

 ここで、本稿の主題である、真珠湾攻撃時に帝国海軍連合艦隊を率いた山本五十六(1884-1943)について、一般に抱かれているイメージはどのようなものであろうか。おそらく、「対英米避戦を強く願いながらも連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を主導する役回りとなり、やがて悲劇的な戦死を遂げた」といったものであろう。

 これは、山本を当時の日本における「穏健派」の一人とみなす点において、クレーギーの対日観察の視点に重なる面が大きい。現実にクレーギーにとっても、大使として接した日本軍人の中で、山本に対する評価は高かったように思われる。

 これに対してサンソムは、当時の日本における「穏健派」への着目と期待、という対日宥和派(当時の駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーも同様の立場であった)の視点そのものに価値を認めなかった。この観察は、前近代から明治維新以降の日本国家を一貫する体質についての、日本史研究家としての洞察に由来していると見ることができる。

 サンソムが日本政治を分析する上で重視した視点は、戦後の48年に彼が雑誌『インターナショナル・アフェアーズ』に寄稿した「日本の致命的失策」という論文(サンソム著・大窪愿二訳『世界史における日本』岩波新書、1951年に所収)の中に見出される。

 彼はそこにおいて、当該期の日本政治を評して「戦争か平和かの死活的な決定は、或る時期における単純な二者択一ではなくして、それに先立つ行為が累積した結果に左右される」と述べている。筆者なりにこの点を整理すると、日本が戦争に突入するか否かという重大な岐路に立ったときに重視されたのは、①「それまでの政策の実施や結果の積み重ね」であって、②「その時点での情勢分析に基づく最良の路線追求」ではない、ということになる。


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