昭和期の日本海軍首脳部が政治的な重大局面でいかに対応したかをたどってゆくにあたり、このサンソムの言は、当時の首脳部の脳裡にどのような考えが広まっていたかを示す、きわめて優れた分析といえよう。
たとえば戦後、極東国際軍事裁判において旧海軍軍人被告として起訴された一人である嶋田繁太郎(太平洋戦争開戦時の海軍大臣)が、裁判所に提出した宣誓口供書のなかで、1941年11月下旬に米国政府からいわゆる「ハル・ノート」を受け取り、政府の対米英開戦決定に最終的に同意した理由について、次のように説明している。
「余は、米国の要求を容れ、尚且、世界に於ける日本の地歩を保持し得るや否やの問題に当面した。我国の最大利益に反する措置を採るのを支持することは、反逆行為となったであらう」。これは明らかに、前出の①の考え方の反映である。
海軍の戦備充実と人事工作
山本の行動の真実
そこで日独伊三国同盟の締結(40年9月)から太平洋戦争突入までの山本五十六の言動をたどってみると、彼は明らかに(そして当時の海軍部内でおそらくただ一人)、②の考えに基づき行動した人物といえる。
たとえば、三国同盟の締結を海軍が正式に認めたのは40年9月15日の海軍首脳部会議においてであるが、ここで議論の方向を確定したのは、当時の軍令部総長であった伏見宮博恭王による、「ここまで来たら仕方がないね」という、国内外の情勢を追認する発言であった。
しかしこの席上で山本はただ一人、同盟締結による米国との関係悪化や、海軍の戦力整備の不安について、どういう対策を講じるつもりであるのか、当時の及川古志郎海軍大臣らに正面から詰問し、同盟締結に最後まで批判的な見解を明示した。そして、これまであまり知られていないことであるが、現実には山本は同盟への賛成決定を追認したのではなく、伏見宮に対して、海軍戦力整備のための資材獲得の重要性を進言していた。
伏見宮はそれに同意し、三国同盟締結を正式に国策として決定した40年9月19日の御前会議では、山本の進言内容をほとんど全て取り入れた内容の発言を行っている。そして開戦までの間、海軍の戦備充実は最も優先された施策の一つとなった。
来たるべき太平洋戦争への準備にのみ専心したと解釈されがちな、この山本の行動は、同時に戦争の長期化を回避する目的での人事上の構想も伴っていた。この構想も伏見宮(当時の高級人事はすべて、宮の同意を得るのが海軍部内の慣行であった)に認めさせている。
これらは一見、論理的に両立しないように見えるが、これまでの行きがかりにとらわれず、政治的展開として考えられるいくつものケースを念頭に置き、水面下で構想の実現を図った点で、山本のユニークさが露わになる部分である。
山本は、かつて海軍次官当時に仕えた大臣であった米内光政(その後首相に就任する時に予備役に編入されていた)を現役に復帰させ、伏見宮の後任の軍令部総長とすることを意図して、人事の権限を持つ及川古志郎海軍大臣に再三の働きかけを行った。
山本は米内の軍令部総長への復帰の前段階として、まず米内が現役に復帰して連合艦隊司令長官に就任することを意図した。そして、この人事構想と同時に、対米開戦時には劈頭(へき とう)に真珠湾攻撃が必要であるということを、及川に再三書簡で伝えている。
「米内復帰」による
避戦、早期の戦争終結に賭ける
真珠湾を空襲するという構想は当時、米軍の強力な反撃によって攻撃部隊の潰滅を招く可能性が高く、投機性のきわめて強い、危険性に満ちた作戦である、という評価が海軍部内で支配的であったが、山本はそれを承知で、あえてこの構想の具体化に突き進んだ。
その理由として、41年1月に及川にあてた書簡「戦備に関する意見」で山本はこう記している。「日米戦争で、日本が第一にしなければならないのは、開戦劈頭、敵主力艦隊を猛撃撃破して、米海軍と米国民にすっかり士気阻喪」させることであり、そのための真珠湾空襲作戦である。そしてこのために必要なことは「米内光政連合艦隊司令長官・山本五十六第一航空艦隊(=真珠湾空襲部隊)司令長官」という人事発令が必要である、というものであった。
山本にとって米内の現役復帰は、対米避戦を考慮した(米内であれば、統帥面での最高責任者として戦争突入不可を明言し、陸軍や海軍部内の強硬派を抑えられるという期待があった模様である)だけでなく、いよいよ戦争が避けられなくなった場合の、早期の戦争終結に向けた事態収拾の布石でもあった。