山本は50代半ばになってもスイスの教育者・ペスタロッチの岩波文庫版著作を愛読するなど、海軍部内でのスタイルにとらわれない教育や人材育成のあり方に関心が深かった。そして、思考様式が画一的であり、大勢順応的であると評された海軍軍人の中では、ユニークな情勢分析力や構想力・実行力を備えていた。
この米内現役復帰構想が実現していたら、太平洋戦争の経過は史実と全く異なった展開をたどったと思われる(あるいは、対英米開戦も回避されたかもしれない)が、伏見宮や及川、そして部内の事務当局にとって、山本の構想は常識外に思われた模様であり、結局において米内の現役復帰・自身の更迭という構想は戦争突入までに実現しなかった。
結局は「人事慣行」におさまり
山本は〝自棄的・玉砕的〟作戦に挺身した
たとえばこの当時、健康上の理由で軍令部総長退任を考えていた伏見宮は、米内を自分の後任とする山本の案にいったんは賛同したが、最終的に伏見宮は自身の軍令部総長退任に際して、後任として米内ではなく永野修身を指名した。これは、戦争突入が迫っている情勢下での主体的な判断によるものではなく、現役の最長老であり米内より先輩でもあった永野を差し置いて、米内を任命することには躊躇があったという、人事慣行上の思考によるもののようである。
山本が伏見宮へのたびたびの進言を通じて追求した二つの目標は不可分一体として実現されるべきものであったが、それがいずれも空しくなって以降、彼は「自棄的・玉砕的とも見える連続進攻戦略」(秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋、1982年)に終始せざるを得なくなった。43年4月、山本は自ら最前線への視察に赴くが、その情報を掴んだ米軍により、ブーゲンビル島上空飛行中に乗機が撃墜され戦死する。そしてこれ以降の日本軍は最後まで、退勢を挽回できなかった。
日本の戦争突入の可否は、独伊と同盟を結んだ日本が、英米に対する戦争への勝利の可能性をどれだけ持ちうるか、つまり前述の②の観点から検討されるべきであったが、当時の海軍部内でも日本政府内でも、決定的な力を持ったのは①の観点であった。
なぜこのような事態が生じたかを考える上で、前出のサンソムが日本の政治文化の伝統や特質について、少数者の発言権の欠如、同意による政治の不在、政治的寛容の伝統が育たなかった問題性などを指摘している点は、現代でも十分に検討に値するものと言えよう。
■修正履歴(2022年1月4日11時15分)
1頁目の「戦後の53年に彼が雑誌『インターナショナル・アフェアーズ』に寄稿した「日本の致命的失策」という論文」の「戦後53年」は「戦後48年」でした。訂正して、お詫び申し上げます。
80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
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