五十六が期待を寄せていた2人
では山本は、組織や政府からの要求貫徹と、交渉における何らかの成果の獲得という、客観的に見て両立がきわめて困難な課題に対して、いかに対応を試みたのだろうか。
このとき山本が期待を寄せたのは部内の2人の人物であった。一人は、皇族の軍令部総長として部内高級人事に絶大な影響力を持っていた伏見宮博恭王であり、もう一人は、山本の海軍兵学校同期生で、無二の親友(山本によれば、公私にわたって心を許したつきあいができる「心友」であったという)であった堀悌吉である。
そして堀はこの当時、いわゆる艦隊派(加藤寛治軍事参議官を領袖とする海軍部内の強硬派で、軍縮体制からの離脱を主張)の圧力によって予備役に編入される恐れがあったため、山本はロンドンへ出発する直前、伏見宮に対し、堀が現役に留まり続けられるように言上していた。『堀悌吉資料集』第3巻(大分県立先哲記念館編集、大分県教育委員会発行、2017年)に収録されているその言上控を見ると、山本は伏見宮に対し、以下の旨を具申している。
「今回の交渉においては日本側と列国との主張には大きな懸隔(けんかく)があり、交渉の劈頭(へきとう)から正面衝突は避けられないと予想される。『日米均等兵力の要求』という海軍の根本主張は一歩も譲歩の余地がないことは十分諒解しているが、これを実現するとなれば、英米両国は特に多大の犠牲を払うことになるので、相手がこの主張を認めた場合には日本側も相当寛大な態度で臨むことが必要である。現在、幸いにも宮殿下が軍令部総長として在任しておられるのでロンドン会議以後のような海軍部内の動揺は決して存在しないと確信している」
そして、山本は続けて、堀の現役地位の保全を要請しているが、これは、かつてワシントン軍縮会議時の随員・ロンドン条約締結時の軍務局長として軍縮体制を支えた堀に対して、山本が、来る翌年の本会議において何らかの使命を托されることを期待し、それを伏見宮に伝えていたことを示すものではなかろうか。
模索していた「政治的合意」という活路
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)所蔵の「一九三五年ロンドン海軍会議 会議日誌」において、この予備交渉の時期に山本から海軍大臣に宛てて発電された極秘電(軍令部総長らの供覧にも付された)がいくつか記載されている。その一つ、11月8日に発電された「山本機密第一番電」において、以下の一節がある。
「帝国の主張を基礎とし、又は之に違背(いはい)せざる知何なる提案に対しても、之を誠心検討するの寛容と胆力とを有せざるべからず。対支問題は英米の最関心を有する所なるべく、日本の軍縮方針を考慮するに当りては同時に此の問題に触れ、対支共同政策等に付、新協定の締結を申出て来ることあるべし。此の場合、之に応ずるを辞せざるの態度を示す要ありと認む」
海軍軍縮問題だけについて英米両国と正面から論争するならば協定の成立はきわめて困難であるが、たとえば対中国政策をめぐる何らかの政治的な合意によって、軍縮体制の維持をはかる、というのが、予備交渉における山本の方針であったろう。そして、その合意に基づく新条約(あるいは国際体制)の策定が討議される35年の本会議の開催時に、日本側全権団あるいは海軍中央において重要な役割を堀が果たすことを山本は期待したのではないか。