「親友」堀悌吉の予備役編入で海軍代表への就任要請を固辞
しかし現実の予備交渉では、日本側の「兵力量の共通最大限度を規定」という主張が桎梏(しっこく)となり、3カ国間での妥結に向けた進展は見られず、それに加えて堀悌吉は12月15日に予備役に編入されてしまった。このことをロンドンで知った山本は、堀にあてた書簡で以下のように記している。
「如此(かくのごとき)人事が行はるる今日の海軍に対し、之(これ)が救済の為努力するも到底六(むつ)かしと思はる。……海軍自体の慢心に斃(たお)るるの悲境に一旦陥りたる後立直すの外なきにあらざるやを思はしむ。爾来(じらい)、会商に対する張合も抜け、身を殺しても海軍の為などといふ意気込はなくなってしまった。ただ、あまりひどい喧嘩わかれとなっては日本全体に気の毒だと思へばこそ、少しでも体裁よく、あとをにごそふと考へて居る位に過ぎない」
堀の予備役編入は、山本にとって予備交渉にとどまらず軍縮会議全体への関心と熱意を失わせるほどのものであった。ロンドンから帰国した後の山本は、35年の本会議における海軍代表への就任要請を固辞し、代わりに代表に就任した永野修身(太平洋戦争開戦時の軍令部総長)による、随員として同行してほしいという要望も断っている。
もう1人の「男」は尽力していたのか
伏見宮が34年当時、交渉の妥結や堀の現役留任に尽力した記録は見出せない。昭和天皇は、前出の「帝国代表に与ふる訓令」決定翌日の9月8日に、伏見宮から同訓令における統帥事項についての上奏を受けたとき、「最大保有量の平等に拘(こだわ)り、比率主義を全面排撃する」ことに納得せず、「海軍は重大なる国際問題を、部下将校統制の為に犠牲にする」という懸念をもらした、といわれる。
伏見宮が、前出の艦隊派による堀の予備役編入への要求に積極的に応じたのか否かについては、当事者の証言や決定的な史料がないため判然としないが、すくなくとも山本は、伏見宮が「部内統制の為の犠牲」として、堀の予備役編入を阻止しなかったと受けとめたのではなかろうか。その数年後、海軍次官に就任した山本は、部内統制の正常化による海軍の立て直しに乗り出すことになる。(第2回に続く)
80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
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