ある韓国関係の会合で日本の敗戦に話題が及んだとき、「満州に残された日本人の惨状は知っていますが、朝鮮半島で暮らしていた日本人はどのような運命に見舞われたのでしょうか」と質された。
この疑問は、多くの日本人に共通するものだろう。満州での惨事はさまざまな証言や資料があるが、36年間にわたり日本が支配した朝鮮半島で、日本人がどのような運命に見舞われたのかは情報が少ない。
そこで本稿では、韓国・ハンギョレ新聞の元東京特派員である吉倫亨氏が著した『1945年、26日間の独立 韓国建国に隠された左右対立悲史』( ハガツサブックス)と元中日新聞論説委員の城内康伸氏が著した『奪還 日本人難民6万人を救った男』(新潮社)の内容を中心に、朝鮮半島に残された日本人の運命を紐解いてみたい。
独立運動家・呂運亨と決めた終戦後の方針
終戦時の朝鮮半島には、統治機構である朝鮮総督府の官吏や警察官、銀行やインフラなど民間企業の従業員、それらの家族など約70万人が暮らしており、これとは別に陸軍第17方面軍など軍人・軍属約23万人が駐屯していた。
このうち、約45万人の民間人が南朝鮮にいた。まずは、吉倫亨氏の著作『1945年、26日間の独立 韓国建国に隠された左右対立悲史』から当時の状況を辿っていきたい。
1945年8月9日、広島・長崎への原爆投下とソ連参戦を受けて、日本はポツダム宣言受諾を決意し、10日には中立国を通じて連合国に降伏の意図を伝えた。
だが、総督府にはこの重大な決断は伝えられず、総督府はソ連参戦とポツダム宣言受諾を「同盟通信」が受信した米国の短波放送「米国の声(VOA=Voice Of America)」で知るに至った。
これは陸軍も同じで、井原潤二郎第17方面軍参謀長は、「私がこの事実(日本の敗戦)を知ったのは前日(注:8月14日)の午前10時、同盟通信からであった。陸軍省や海軍省からではなく同盟通信の京城支局長が電話をかけてきた」と回想している。
そして、8月15日午前、総督府ナンバー2の遠藤柳作政務総監と独立運動家の呂運亨との間で、解放後の治安維持を委任するための会談が行われた。この背景には、京城(現在のソウル特別市)を占領するのはソ連軍であるとの見立てがあった。
遠藤と総督府ナンバー3の西広忠雄警務局長は、「ソ連軍が京城に入れば、西大門刑務所などに収監されていた共産主義者を大挙釈放して、朝鮮に共産党政権を樹立することが火を見るより明らかであった。これに付和雷同した朝鮮人が、約70万人の日本人に危害を加えたらどうなるのか」という最悪の状況を懸念していた。朝鮮人から名声が高い呂運亨に治安維持を託すことで、日本人への危害を防ごうと考えていたのだ。
それから数時間後の正午、京城でも玉音放送が流れた。