旧職場の同僚からの突然のメール
『フィリピン島巡り放浪旅』の出発直前に懐かしい御仁から突然のメールを受信した。商社勤務していた約35年前のイラン駐在時代に同時期に駐在していたYS氏からであった。
YS氏とメール交信するなかでYS氏のご尊父(YM氏)がフィリピンのネグロス島に従軍していたことが判明した。旅の途中ネグロス島で故YM氏の戦跡をYM氏が残した手記に基づいて辿ってみることにした。
出征するまでのYM氏の日常
YM氏が残した手記から当時の地方の一青年の軌跡を追ってみたい。YM氏の実家であるY家は当時茨城県那珂郡(現 常陸大宮市)の庄屋だった。
17年3月太田中学校卒業、同年4月茨城県庁奉職、地方課配属。昭和18年4月那珂地方事務所庶務係兼学事室勤務を拝命。主事補に昇格。事務所近くの旅館に下宿して通勤。学生時代にはテニス部に励む、平穏で勤勉な青年の姿が思い浮かぶ。
招集令状を受けてからネグロス島バコロドに上陸するまで
昭和19年3月召集令状を受けて応招。昭和19年5月野戦高射砲第76大隊第三中隊に編入。7月3日フィリピン派遣のため門司港出航。バシー海峡に米軍潜水艦出没のため7月7日から台湾基隆港にて待機。7月9日輸送船団10隻、掃海艇2隻にてマニラ港へ向け出航。途中で輸送船2隻が米軍潜水艦により撃沈。
(家族に語った話:撃沈された船は海中に沈む時に渦となって周囲を飲み込んでいく。いち早く海に飛び込み、沈む船から離れるしかない。自分の船が攻撃されたと勘違いした仲間は、海に飛び込み帰らぬ人となっていった。自分は「我が艦にあらず!」との声を冷静に聞き、命をつないだ)
7月17日~11月17日。マニラ市内の飛行場や港などで防空、対空戦闘。
ネグロス島上陸から飛行場守備、そして米軍上陸
11月18日。YM氏所属の第三中隊(藤田中隊)は転進のためマニラ港から出航。11月21日ネグロス島のバコロドに夜間上陸。(筆者注)バコロドは現在人口約56万人の大都市である。米軍の爆撃で桟橋が破損しており工兵隊の支援で未明までなんとか上陸完了。
昭和19年11月22日~昭和20年3月。バコロド、シライ、サライ、サラビアの各飛行場の防空、対空戦闘、陣地構築。(筆者注)シライはバコロド市街の北、サライはバコロド市街の東に現在も地名として残る。山本七平氏の『一下級将校の見た帝国陸軍』では飛行場の実態が紹介されている:ネグロス島は日本軍が航空要塞を構築しており、米軍が手痛い損害を被るだろうと日本兵は信じていたが、実際には「毎日の爆撃で穴だらけになった飛行場群に焼け残りの飛行機が若干藪影に隠されているだけ」であった。
3月12日米軍バゴロドに上陸。
昭和20年4月から8月『山岳地帯での逃避行、そして終戦』
米軍上陸後、高射砲部隊は米軍機の猛攻に超人的努力と犠牲的精神を以て応戦、米軍の進軍を一時的にせよ数日遅らせ、友軍1万余名は壊滅を免れカンラオン(標高2470メートルの活火山)、マンダラガン(標高1850mの活火山))、シライの各山系へ分散退避できた。
山岳地帯では「衛生班の一員として連日空爆と砲撃の中、山岳地帯の稜線、ジャングルの道なき道を戦友の屍を乗り越えながら、時には食物と水を求め渓谷に下り、また稜線によじ登ることの繰り返しで、時には敵兵と銃撃戦になり、散って行った戦友、或いは食糧調達に夜間山を下り帰らぬ友もあった」と淡々とYM氏は記している。
山岳地帯に逃避した他の部隊の何名かの兵士の手記では熱帯病と栄養失調で斃れた兵士の遺体には銀蠅が密集し、腐敗すると蛆虫が湧き、さらに風雨に打たれ白骨化した遺体が至る所に死屍累々と横たわっていたと描かれている。まさに地獄絵図だ。
日本赤十字の記録では敗走した日本軍が戦地に置き去りにした野戦病院では軍から自決用に手榴弾・青酸カリ等が配布された。『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓が非戦闘員である日本赤十字職員の看護婦をも呪縛したのだ。
ある野戦病院では看護婦・傷病兵を救うために軍医として徴集された青年医師が独断で米軍への投降を決行して全員が九死に一生を得た。青年医師は投降の途中で日本軍に見つかれば責任者として処刑される覚悟であったという。民間出身の医師という知識人であったために情勢を客観的に判断して『戦陣訓』や『鬼畜米英』というドグマに縛られずに投降という合理的決断ができたのであろう。
9月2日米軍への投降から復員まで
YM氏の手記では8月15日から米軍の砲撃・空爆が全然無くなり不思議に思っていたという。部隊は孤立しており終戦は知らなかった。8月20日頃から米軍が連日ビラを空中散布して「日本は敗戦した。投降すれば優遇するので早く下山せよ」と呼びかけ。
9月1日。藤田中隊長の命で2人の隊員が決死の覚悟で軍使として米軍陣地に赴き敗戦を確認。その後、夜を徹して歩き回り山中に分散している隊員に翌日全員で投降することを伝達。
9月2日。指定の場所に徒歩で集合できた隊員数十名で4キロ先のサン・パブロの米軍陣地まで行軍して投降。自力で歩行できない傷病兵は各自居場所で手榴弾などを用いて自決。「投降のため下山途中、ほうぼうの山中から自害する爆音が聞こえこだましていた」とYM氏は手記に無念の想いを綴っている。
投降初日は氏名・階級申告⇒DDT消毒⇒シャワー⇒米軍作業服・下着配布⇒野戦用テントの簡易ベッド割当。(筆者注)捕虜初日の一連の流れは大岡昇平『俘虜記』と全く同じ。米軍には捕虜待遇マニュアルが整備されていたのだろう。
9月18日。米軍陣地からバコロド収容所へ移動。
10月12日。バゴロド港から船でパナイ島イロイロ収容所へ。イロイロから実家に無事を知らせる手紙を送る。
11月1日。イロイロ港出航
11月3日。レイテ島タクロバン港上陸。レイテ第二収容所へ。
11月12日。レイテ島第三労働キャンプへ。飛行場の整地等の使役。
12月10日。レイテ第四収容所へ。戦犯容疑者を洗い出すための取り調べ。同姓の容疑者がいる場合は容疑が晴れるまで拘束されたが幸いにもY姓の容疑者はなく拘束を免れた。
12月15日。レイテ島タクロバン港出航。
12月17日。浦賀港上陸
12月30日。招集解除。茨城の実家に復員。「敗戦までの国内の状況を知り我々が受けた教育は根本的に間違っていた事を悟る」と心境を語っている。YM氏は実家を継いで食糧増産に挺身するため茨城県庁を退職。
バゴロド市郊外の日比友好戦没者慰霊神社
戦没者慰霊碑はバコロド市郊外ロザリオ・ハイツ地区にあった。三輪車タクシーを乗り継いで約一時間。ジャングルと田畑の間に“神社通り”(Shrine Street)があった。
神社入口に“Filipino-Japanese Friendship”と掲げられ、慰霊碑の碑文にはネグロス島戦友会・遺族会・在留邦人会の名前で昭和55年建立とあった。献花して拝礼。三輪車タクシーの35歳の運転手から尋ねられたので慰霊碑の背景を説明したが彼は太平洋戦争そのものを知らない様子だった。