FMラジオ局の朝のニュース番組
慰霊碑に拝礼した翌朝バゴロド市内を散策。地元のFMラジオ局があったので表敬訪問。朝のニュース番組の放送中でスタジオでは支配人が地域の出来事などを紹介しながら合間に音楽を流していた。ビサヤ語でテンポよく番組進行している。
支配人が手招きしたのでスタジオに入ったら番組に飛び入り参加するようオファー。支配人は「今朝は日本からきた元ビジネスマンのバックパッカーを紹介する」と英語で筆者の紹介を始めた。郊外の戦没者慰霊碑に参拝したことを話したところ支配人は「素晴らしい。日本人だけでなくフィリピン人の犠牲者のためにも礼拝してくれたことは感謝したい」と切り出し聴取者に向かって「不幸な歴史を乗り越えて日比両国は最高の友人になりましたね」と呼びかけた。
平穏な戦後の生活の中でも残る戦場の記憶
独立野戦高射砲第76大隊は約600人の編成だったが復員できたのはたった1割ほど。YM氏の藤田中隊(藤田寅之輔中尉)生存者名簿(平成9年作成)では生存者は27人。
山岳地帯の凄惨な逃避行についてYM氏は家族にも多くを語らなかった。その後、町会議員、銀行勤務(現 東日本銀行)を経て、東京オリンピック前にスポーツ関連事業(Yスポーツ)を立ち上げ大きな成功を収めたが、家族の話では花火大会には決して行かず、いつも遠くから眺めていた。打ち上げ花火の音を聞くと米軍の爆撃を思い出すというトラウマがあったのだ。
エピローグ、封印された手紙
平成16年にYM氏は偶然実家の蔵から自身がイロイロ収容所から投函した手紙を発見。YM氏の両親は生前この手紙について何も話したことがなく、YM氏自身も手紙が実家に届かなかったのだろうと想像していた。なぜこの手紙の存在が隠されたのだろうか。
親族が想像するには、茨城県出身者で編成された高射砲大隊の大半は戦病死したことからYM氏実家の周辺や縁者にも身内を失った人が多く“息子が捕虜になってフィリピンで無事に過ごしている”とは言えない世間の雰囲気があったのではないかという。封印された手紙の背景には敗戦国の悲しい世相があったのだろう。
以上 次回に続く