雑貨屋の主人が受け継ぐ戦争博物館(War Museum)
3月25日。ネグロス島の東ネグロス州の中心都市ドゥマゲッティは人口13万人の風光明媚な学園都市である。この平和そのもののネグロス島はかつて太平洋戦争でルソン島、レイテ島に次いで3番目の激戦地であったという。
ドゥマゲッティの郊外の山間部にバレンシア地区がある。バレンシア地区の奥に広がる山岳地帯に逃げ込んだ日本軍に対して圧倒的物量を誇る米軍が掃討作戦を展開した。
バレンシア地区の入口の幹線道路沿いに雑貨屋を経営する一家が運営する戦争博物館があった。雑貨屋のオーナー一家が住む邸宅の一階部分を博物館として開放している。観覧は無料で出口に小さな寄付箱(donation box)が置いてあるだけ。
主人のカタル氏は筆者と同年代。主人は雑貨屋の経営は40代の長男に任せて観光客が来ると楽しそうに展示物の解説をしている。実は数日前にも同博物館を訪ねたが、あいにく当日はカタル氏が華僑系フィリピン人の一行の対応に追われ筆者は満足に話ができなかったので再訪した次第。
遺骨収集団の世話をしたのが、戦争博物館開設の由来
カタル氏の父親は地元の有力者であった。戦後日本政府厚生省が、同地域に数回派遣した戦没者遺骨収集団の受入れの世話役を引き受けた。収集作業を手伝う地元民のまとめ役を担ったり、戦場跡地の地主の協力を取り付けたりした。昭和30年代は未だに反日感情を抱く人も多く、父親の協力は遺骨収集団に非常に感謝されたようだ。厚生省担当課長や遺骨収集団からの感謝状やお礼の手紙を見せてもらった。感謝状や手紙には必ず“日本軍が地元民に対して多大な犠牲と被害をもたらしたにもかかわらず、父親と地元民が手厚い支援をしてくれたことに感謝する”という趣旨が述べられていた。
父親はドゥマゲッティ市内の名門シリマン大学出身。戦時中シリマン大学有志は、抗日ゲリラ部隊を組織し、父親は将校としてゲリラ部隊を指揮。戦後は家業の他に警備会社を起業して経営していた。
遺骨収集団は原則として遺骨のみを日本に持ち帰る。従って戦場に放置され散乱した銃器、刀剣、鉄兜、飯盒、水筒などが収拾されると、そのまま現地に残される。地元民が収集した武器、軍装品、日用品などをカタル氏の父親が自宅に集めて展示したのが博物館の由来との説明。さらに米軍が引き上げるときに置いて行ったジープ、野営用品、軍服なども展示。そして遺骨収集団から送られた日本人形、武者兜なども展示されていた。
日米の物量差を物語る遺留品、意外な発見
米軍の遺留品で目に付いたのは、コカ・コーラの空き瓶である。子どもの頃遺骨収集作業の手伝いをしたカタル氏は、米軍のキャンプ跡には無数の空き瓶が捨てられていたという。また大量生産された携行食料を入れた軽い金属製の容器。日本軍が焚火をおこして飯盒で煮炊きしていたのとは雲泥の差である。
日本軍のマラリア蚊退治の噴霧器は、日本軍で唯一当時の最先端技術だった。農薬散布のようにタンクを背負って噴霧したようだ。筆者がこれは米軍の装備ではないか? とカタル氏に質したところ、「とんでもない。当時日本は熱帯病研究で世界最高レベルでありマラリア感染の仕組みを解明して薬品を発明した」と解説。なんと野口英雄の黄熱病の研究も引き合いに出していた。
また戦闘機の航続距離を延ばすための増槽(投下式燃料タンク)が十数個もあった。写真を台北在住の友人に送ると、戦時中台湾の基地から日本軍航空隊がフィリピン各地に連日飛び立っていったとのこと。当時の写真で照合するとゼロ戦に搭載した増槽のようだ。真偽は不明であるが、カタル氏によると山岳地帯に逃げ込んだ日本軍は乾季には飲み水がなくなり日本軍機が水を充填した燃料タンクを投下したこともあったらしい。