「生きてこそ大和櫻」投降勧告のビラも虚しく
日米両軍の文明度格差
ドゥマゲッティ市内に九州北部で編成された部隊約1300人が駐屯していた。遺骨収集団からの手紙の住所も福岡市、北九州市などであった。カタル氏によると指揮官は鈴木という大佐(colonel)。
米軍が上陸すると郊外のバレンシア地区に移動。最後は山岳地帯に潰走した。多くの犠牲者を出した滝の近くに慰霊の神社が建立された。
当時の記録によるとレイテ島から逃げ込んできた約300人が駐屯部隊1300人に合流して、最終的に600人が降伏した。つまり1000人以上が逃げ回る中で、戦病死(餓死・栄養衰弱が大半)したことになる。
米軍機が空中散布した日本語による投降勧告ビラを見せてもらった。このビラはまだ日本がポツダム宣言を受諾する以前の戦闘状態のときに撒かれたものだ。日本軍「戦陣訓」にある“生きて虜囚の辱めを受けず”については、日本兵の心理を精緻に分析したうえで丁寧に論破している。
「全力を尽くして戦って敗れた兵士は勇者である。そして祖国日本は再建のために勇者を必要としている。無駄に命を捨てるより、勇者として名誉ある投降を促したい。投降した勇者には名誉に相応しい待遇を約束する。祖国日本は諸君を待っている」と結んでいる。
そして投降の際の手順、つまり白旗(ハンカチで代用も可)の掲げ方、米軍兵士への合図の仕方などを詳細に説明している。
旧仮名遣いではあるが素晴らしい名文である。日本人、日本軍、日本社会をここまで研究していたのかと改めて感心する。それにしても日本軍、特に旧陸軍の明治以来の旧弊体質に唖然とする。
第2次大戦では連合国はおろか枢軸国のドイツ・イタリアですら1907年のハーグ陸戦条約、1929年のジュネーブ俘虜待遇条約を前提に交戦した。ドイツ軍は東部戦線で整然とソ連赤軍に投降して、シベリアの収容所でも堂々と待遇改善を要求している。日本軍は兵士に皇軍不敗神話を妄信させ、兵士に投降を禁じて万歳突撃を強要したのである。日本だけが世界標準とはかけ離れた時代錯誤のルールで戦争したのだ。
予想に反した小野田元少尉への敬意
投降勧告ビラの話から、カタル氏は投降を拒否した小野田寛郎少尉について言及した。カタル氏によると、小野田元少尉のニュースは、当時新聞やテレビでフィリピン全国に連日報道された。地元のルバング島では犠牲者もあり異なる評価かもしれないが、フィリピンでは一般的に小野田元少尉は国家の大義に一命を投じた英雄とされているという。敵味方は別として国家のために1人で戦い続けた兵士としてフィリピン人は敬意を払っているとのこと。
気になったので他の島でも機会があるたびに小野田元少尉について聞いてみたがやはり“英雄”という評価であった。