スリランカは南伝仏教の聖地なのだ
11月12日。羽田から上海経由で三十数時間、コロンボ空港到着。午後8時過ぎで公共バスはない。仕方なくタクシーで市内のホステルへ。
ホンダ中古車のタクシーのダッシュボードに小さな仏像が蓮華の花の上に鎮座している。ドライバーは仏教徒でシンハラ人だと自己紹介。なるほど日本人が車に神社仏閣の交通安全のお守りやお札を飾るのと同じような風習なのだろう。
高校世界史教科書の仏教伝播の地図が咄嗟に浮かんだ。北インドでお釈迦様が説いた仏教が北へはチベット・モンゴル→中国→朝鮮→日本へ伝わり、南へはセイロン・ミャンマー→タイと伝わった。日本に伝来するより500年も前にセイロンに仏教が伝わって仏教王国が栄えたという南伝仏教の聖地セイロンに来たのだと思うとドライバーに親近感を覚えた。
多民族・多宗教国家のスリランカ
人口約2200万人のスリランカはシンハラ人75%(大半が仏教徒)、タミル人15%(インド南部のドラビダ人が紀元前に移住、英国植民地時代にも労働力として移住。大半がヒンズー教徒)、ムーア人9%(アラビア半島、マレー、インドネシア等から移住したイスラム教徒)。
宗教別では仏教70%、ヒンズー教13%、イスラム教9%、キリスト教8%となっている。そして言語はシンハラ人のシンハラ語、タミル人のタミル語が現在では公用語となっている。
スリランカ財政破綻の遠因は1975年から2009年にわたる34年間の内戦である。タミル人武装組織、“タミル・イーラム解放の虎”(LTTE)による分離独立闘争だ。
スリランカは1948年に英国から独立を果たすが、この時点で既にシンハラ人とタミル人の対立は始まっていた。大英帝国の植民地統治の基本原則である『分割して統治せよ』が民族間対立の根源だ。植民地時代に英国支配に反抗的・不服従であった多数派のシンハラ人を統治するために少数派のタミル人を下級役人として重用した。
異民族の統治下で支配機構の末端を担った人々(タミル人)はマジョリティーの被支配者(シンハラ人)から独立後に必ず報復を受けることになるのはどこの国の歴史でも通例である。身近なところでは日中戦争中に日本軍に協力した中国人は戦後“漢奸”として人民裁判で吊るし上げられ、日本の朝鮮支配に協力した朝鮮人は“親日派”(チンニルパは現代韓国でも最大級の侮蔑の表現である)として憎悪と差別の対象となった。
余談であるが、筆者は8年前そうした歴史の証人に出会ったことがある。第二次大戦下でナチスドイツに協力的なフランスのビシー政権下にあった南フランスの鉱山町。偶然出会った元鉱夫は戦争中に父親が警察官であったため父親は戦後定職につけず、一家は住民から村八分を受け、店で食品を売ってもらえず、自身も子供時代に酷い苛めを受けて学校に行けなかったと悔しそうに語っていた。
多数派シンハラ人によるタミル人封じ込め政策
独立後議会で多数派となったシンハラ人政権では1948年『セイロン市民法』によりタミル人は公民権を奪われ、1949年の『国会選挙法』では選挙権を奪われた。1956年の『シンハラ・オンリー法』によりシンハラ語が公用語となりタミル人は公務員から排除された。1972年及び1978年の憲法でも『仏教に至高の地位を与える』という条項が残されヒンズー教徒への差別は続いた。
こうしたシンハラ人優位政策の下で1975年にタミル人の独立武装闘争が始まった。