スリランカの学校制度が複雑な理由
本編第5回『財政破綻以前は医療と教育は無償だったスリランカの今』(2024/02/11掲載)にて紹介したようにスリランカの学校制度は複雑である。理由の一つは上記F氏が指摘したシンハラ語とタミル語という二つの公用語を義務教育課程で学習させることにある。キャンディーのように南部高原地帯には英国植民地時代にコーヒーや紅茶農園の労働者として南インドから移住してきたヒンズー教徒タミル人が多く住む地域がある。
効率よく学習させるためにタミル人子弟専用公立学校を設立して普通の科目はタミル人教師がタミル語で授業して、別途シンハラ語をシンハラ人教師が授業する方式をとっている。もちろんキャンディーには多数派のシンハラ人子弟のための仏教公立学校も多数ある。こちらでは普通科目はシンハラ語で授業して、別途タミル人教師がタミル語を教えている。
リンデュルもタミル人集住地域であるが歴史的にカトリック教徒タミル人である。マリアタウンという場所にはキリスト系タミル人男女公立学校があった。バスで一緒になった女性教師は小学校課程を担任しているが教師不足のためタミル語・シンハラ語・英語を教えていた。
仏教とヒンズー教の親和性と公共バスの多宗教共存
仏教徒のゲストハウスや個人の家では仏壇に仏像の横にヒンズー教のガネーシャも祀られているのは珍しくない。そもそも仏教はヒンズー教から派生したという経緯から仏教とヒンズー教は親和性があると聞いていたが実際に仏像とガネーシャ様の共演を目の当たりにすると納得する。
キャンディーの世界遺産“仏歯寺”の広大な敷地の北側にヒンズー寺院があり毎朝鉦と太鼓を鳴らして勤行している。ある朝参拝に行くと女学生が熱心に祈っていた。帰り道に一緒になったので聞くと彼女は仏教徒であるが静寂なヒンズー寺院が好きなので毎朝登校する前に参拝しているとのことだった。
公共バスではドライバーの宗教によりダッシュボード中央部に仏像またはヒンズー教のシバ神やガネーシャ様が鎮座していた。そして面白いことにフロントガラスの上のスペースにはキリスト像、仏像、ヒンズー神、回教のシンボル図案が平等に並んだ絵が掲げられていることが多い。つまりドライバー個人の信仰とは別にいずれの宗教に対してもリスペクトしているのだ。
四大宗教共存のツナミ犠牲者追悼記念式典
12月26日。2004年に発生したスマトラ島沖大地震による津波犠牲者追悼記念日。ヒッカドウア・ビーチからバスで15分ほどの集落へ向かった。日本の本願寺の協力で建造された大仏が池の畔に立っていた。
付近のビーチの広場の追悼記念碑の周辺に式典用のテントが設置され来賓や犠牲者の家族が参列していた。碑文によると走行中の列車が津波に巻き込まれ1800人余りが犠牲になったという。式典開始前にテントに近寄ると仏教、ヒンズー教、キリスト教、イスラム教の四人の宗教指導者がそれぞれ式服をまとって和やかに談笑していた。少し話を聞くと四人はヒッカドウア地域の宗教指導者であり平素から諸問題を話し合ったり意見交換したりしている親しい友人なのだという。
7年前に北インドのレーで遭遇したダライ・ラマを思い出した。彼は宗教対話のために回教寺院を訪問してイスラム教の最高指導者と会談した帰りだった。ダライ・ラマが理想とした宗教対話が自然体で実践されていることをスリランカの海岸で目の当たりにしたのだ。
咄嗟に現在進行形の惨劇が思い浮かんだ。中東のガザの悲劇に対してユダヤ教のラビやパレスチナのイマムは何を考えているのだろうか。
式典が終了すると列車の長い汽笛が聞こえてきた。列車は事故現場で追悼の汽笛を鳴らしたまま停車して乗員・乗客が黙祷した。
スリランカは国民国家になったのだろうか?
事故現場から数百メートルの場所に津波災害記念博物館があった。通常の展示室のほかにカーテンで覆われた特別展示室があった。館員が事前に注意を与えて筆者の確認を取ってからカーテンを開けた。思わず背中に悪寒が走った。津波発生直後から経過時間毎に犠牲者が流されていく生々しい様子や無数の遺体の腐乱していく有様が数百枚の記録写真として展示されていた。
館員の青年の説明によると津波が襲った2004年はまだ北東部を中心に内戦状態。当初犠牲者は約3万5000人死亡と報道されたが武装集団LTTEが実効支配していた北東部海岸の犠牲者数は推定だった。2009年内乱終結後に集計した結果5万5000人死亡、1万人行方不明に訂正された。
博物館は日本・豪州を中心とする世界各国の地震津波災害に関する研究機関や緊急支援組織、ボランティア団体のネットワークに加盟している。定期的に開催される地震災害国際シンポジウムに参加している。
スリランカは津波で未曽有の被害を受けた。しかし民族や宗教に関わらず地域住民全員さらには国民が一致団結することで復興を成し遂げたことが全ての民族宗教を包含する真の意味での国民国家形成への契機になったのではないだろうか。
以上 次回に続く