残留派は朝鮮語取得のための教育機関を設けたり、日本人学校を設置しようとしたりしたが、9月12日にトルーマン大統領が「在朝鮮日本人は速やかに本国に送還される」と表明すると、米軍は日本人の10キロメートル圏外への外出を制限したり、日本企業を接収し、朝鮮人に払い下げたりと、日本人の送還を急いだ。
米軍は、10月10日に3000人の日本人を乗せた列車を釜山に向けて出発させた。朝鮮を離れるにあたり所持できる現金はわずか1000円、リュックサック2個に制限されたが、同年春までにほとんどの日本人が帰国した。
北部では、全く異なる状況
一方で、38度線以北は全く異なる状況を見せていた。北朝鮮地域の日本人は約25万人で、終戦前後に満州からの避難民約7万人が雪崩れ込んだ。ここからは城内氏の著作『奪還 日本人難民6万人を救った男』から当時の状況を辿っていく。
9月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍はソ満国境を侵犯すると同時に、朝鮮半島北部の日本海側の港町、羅津と雄基を攻略した後、13日に主要港である清津港を攻撃し、19日には占領を終えた。
大日本紡績清津化学工場に勤労動員されていた赤尾覺氏が、「遠い南の島の出来事と思っていた戦争が、いきなり襲いかかってきた」と述べているように、ソ連参戦は北朝鮮地域に暮らす日本人にとっても寝耳に水の出来事だった。
ソ連国境に接する咸鏡北・南道が戦火に見舞われたことで、日本人の立場は支配者から避難民に転落した。加えて、ソ連軍が南北間をつなぐ鉄道を38度線で遮断。南側へ逃げることもできず、総督府と軍の庇護から切り離された非難民は、事実上の棄民となった。
そのような中を雄基国民学校6年だった大嶋幸雄氏は、軍が計画していた避難経路を大人とともに6日間歩き続け、中朝国境の会寧にたどり着いた。逃避行は「寝場所の奪い合い」で、「どこに行っても人が泊まった後は、うんこだらけ」だったと、異常な状態に置かれた人々の不可解な行動を指摘している。
羅津高等女学校3年だった得能喜美子氏は山中の逃避行の3日目、獣道に生後2、3カ月の乳児が置き去りにされているのを見かけた。おおよそ、ソ連軍に泣き声を聞きつけられることを恐れた避難民が、母親に棄てることを強く求めたのだろう。
得能氏は、「十代半ばの少女が山中に乳児を置いていかれるのを何度も見たんです。もう、頭がおかしくなりそうでした」と、悲劇を振り返る。
しかし、棄民の逃避行を待ち受けていた悲劇は、これだけではなかった。
ソ連兵が起こす惨状
満州での惨劇と同様にソ連兵による婦女子への暴行は凄まじく、「マダム・ダワイ!(女を出せ)」と叫びながら、見境なく襲いかかった。日本窒素肥料興南工場に勤務していた鎌田正二氏の手記には、ソ連兵の集団が日本人宅に押しかけ、夫に拳銃を突きつけ部屋の外に連れ出し、子供を放り投げた後、残った母親を性的暴行を加える場面が描かれている。
「死んだようになった女は、身を伏したまま泣いている。夫は歯を食いしばって、すごい形相をしていたが、やにわに包丁を手にソ連兵を追おうとする。近所の人たちは、『がまんしろ』と押しとどめる。みんなに迷惑がかかるからと頼む」
このような惨劇は至るところで見られた。戦後まとめられた「北鮮戦災現地報告書」によれば、咸興だけで「昼夜別なく不法侵入による盗難・暴行・陵辱事件が頻発、この届出が1日20件から30件」を下らなかったという。
そして、36年にわたり日本人に支配された朝鮮人も牙を剥いた。ソ連と国境を接する北朝鮮地域では共産主義の影響が強く、ソ連が朝鮮人の共産主義者による人民委員会を通じて間接統治を始めたことも大きく影響した。
後に北朝鮮の最高指導者となる金日成が初代司令官を務めた保安隊は、検問と称して日本人から物を奪うだけではなく、警察官など朝鮮人から目の敵にされていた者を連行した。彼らは「厳しい拷問にあって見るかげもない死体となって返された」という。
城内氏の著作では、これら北朝鮮地域で日本人を襲った悲劇とともに、戦中は「アカ」(共産主義者)と白眼視されながらも、ソ連軍や朝鮮人と丁々発止の交渉を行い、日本人を集団脱出させた松村義士男(34歳)の功績に光が当てられている。