2024年12月22日(日)

名門校、未来への学び

2020年3月4日

 参議院議員の猪口邦子さんは少女期の経験をそのまま跳躍板にして、現在を生きている。そう感じさせる稀有な政治家だ。1980年代には女性では珍しかった国際政治学者として注目を浴び、2002年から04年までは軍縮会議日本政府代表部特命全権大使を務めるなど、華々しい活躍の後、いわゆる小泉チルドレンとして政界に躍り出た。

猪口邦子さん。千葉県市川市生まれ。市川市立八幡小学校、桜蔭中学・高校に学ぶ。上智大学卒業。ロータリークラブ奨学金で米国エール大学に留学(国際政治学専攻)。1982年エール大学政治学博士号(Ph.D.)取得。上智大学教授を経て、2002~2004年ジュネーブ軍縮大使。現在は参議院外交防衛委員会委員。(写真・鈴木隆祐)

 当時は政治という生々しい世界で、学者上がりのしかも女性が務まるのだろうか—―という目でも見られたろう。ただ、実際にお会いし、少女時代の話を聞くと、政治家となったのも天命かと思えるのだ。それだけ現在の若者の生き方を、ご当人曰く「先取り」せざるを得ない、目まぐるしい10代を送ったのだ。

 というのも、猪口さんは帰国子女の先駆け。そんな言葉もまだない1960年代半ば、東京海上火災に勤務する父がサンパウロ支店長となったのを機に現地に渡り、名門のアメリカンスクールに通った。そこで英語のシャワーを浴び、時には差別的な待遇も受けたのだとか。

 「小学4年から中2までの5年間、一番多感な時期をブラジルで過ごしました。ブラジルというとアマゾン川にジャングルといったイメージがあるでしょうし、周囲にも同情されましたが、サンパウロは高層ビルが建ち並ぶ都市で、欧米からもたくさんビジネスマンが集まっていました。ブラジルは鉄鉱石に綿と、天然資源が豊富でしたから。

 日本はちょうど高度成長期で、その貿易を支える保険の整備も急務でしたから、父も一企業人というより、国策を担う意識が強かったと思います。私は最初は小さな英国系の小学校に入りましたが、転校しようとしたら、そこは日本人は入学させない方針だったんですね。そこで父は米国は人を平等に扱うと聞いている、と校長先生に訴え、私は試験を受けることが許されました。日系移民にも成功者が多く、主に農業に従事してましたけど、田園の造りが日本流できちんとしてるんですね。見ればすぐわかる。でも、(日本の)敗戦から20年近く経っているのに、まだそんな目で見られるなんて…。

 だから私、猛烈に勉強しましたよ。教科書は英語ですけど、丸暗記すればいい。その後の条約集でもそうです。全部頭に入っていれば、サッと出てくる。政治家になっても、暗記できる人は強いです。必要に応じて猛勉強するという癖はその時につきましたね。国旗を背負って勉強してた(笑)」

素朴な愛国心が芽生えた海外経験

 筆者も好きな科目というかテーマの本なら、一字一句と言えないまでも、趣旨は諳んじてしまうほうだ。学校のテストとは違い、しっかりテーマについて学んだ自信もないと、なかなか記事にも手が着かない。しかし、親の背を見て子は育つというが、その諺を地で行く「戦い」が遠く地球の裏側で起きていたのだった。

 その学校にはその後、追って、アジア系も続々入るようになり、「父は親として、私も子どもとして先駆者だったの」と猪口さんは振り返る。「日本の子どもとして自分の尊厳を保つ」ための猛勉強ぶりには、ともかく頭が下がる。

 そんな戦いを繰り広げ、ようやく馴染んだブラジルだったが、中3を迎える春に帰国となる。だが、当時は今のような帰国子女受け入れ体制にはほぼない。受験システムも単一だったので、日本の教育から逸脱した子女は、むしろ現場では邪魔物扱いされた。教師が国際的に開かれていないのだ。戦後まだ20年ほど。それもある意味、当然だった。

 猪口さんはその頃を思い起こし、「公立だって学年を遅らせ入学させるというくらいだったのよ」と、今なお戦う少女の面持ちで口を尖らせる。そこを唯一、同学年での編入試験を認めてくれたのが桜蔭学園だった。押しも押されもせぬ、女子御三家の筆頭だが、意外にも柔軟な姿勢を持っていたのだ。

桜蔭学園正門(写真・松沢雅彦)

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