2025年12月5日(金)

戦災樹木を巡る旅

2025年5月17日

 ここに来る前に訪れた長岡戦災資料館のパンフレットには、戦争体験者の七里アイさんの手記が載っている。七里さんは幼い娘の美智子さんをおぶって逃げたが……。

<(前略)誰かが「川! 川!」って言ったので、みんなそこにいた人は、柿川の中に入りました。その年は暑かったので川の水も少なかったのですが、私もとりあえず川の中に入りました。落とされたのが油脂焼夷弾でしたから、川の表面に油が流れて、そこに火が走るんです。防空頭巾に火がつくと、初めはみんなで水を掛け合っていたのですが、とっても間に合わないので、川の中に潜って火を避けるというような状態でした>

<(中略)気がついたら声はしませんでした。あわてて私は水の中で美智子を前に抱こうとしたのですが、おんぶ紐が水で締まってどうしても解けないんです。必死におんぶ紐を伸ばしに伸ばして、やっと前に抱えてみたのですが、無残でした……。顔や手足がひどく焼けただれていたのです。 私は「美智子! 美智子!」と叫びながら体を揺さぶったのですが、意識がありませんでした。こんな時、親がしてあげられることはひとつしかなかったです。私は、自分の服を裂いて、水の中に入りながら一所懸命お乳を飲ませようとしました。美智子は、意識はなかったのですが、本能でしょうか、吸い付いてはくれたんですけど、じきに放してしまいました。こうやって美智子は無残に死んでしまいました>

 七里さんの手記には、我が子を守れなかったことへの痛烈な自責の念が綴られていた。

戦災を生き抜いた桜

 長岡青年会議所のホームページに掲載されている「桜街ながおか」探索マップで、柿川の桜は「長岡空襲を生き抜いた桜」と紹介されている。近隣住民談として「昭和12年(1937年)頃に近隣住民の想いで植樹され(中略)空襲で葉や枝は焼かれても幹や根は枯れず、翌年、新しい芽を出し、2年後に花を咲かせた」とある。さらに「戦災を生き抜いた桜は現在12本くらいが生存しています(2019年当時)。焼夷弾が擦れて痛々しい傷跡を残しながらも懸命に咲く桜に、どれほど、多くの長岡市民は生きる勇気をもらったことか……」と記されている。

南町側の路地に立つ桜

 いま私が立つ小さな橋は、桜並木の端に位置する。線路を背に、下流に向かって左側の南町に5本、右側の旭町に1本の桜の老木。6本はどれも樹幹が太く、威厳を感じるが、大きな傷を抱えている。縦に切り裂けた幹、空洞のある幹、途中で折れ、大きくうねった幹……。

南町側から下流に向かって撮影。川を挟んで右が旭町

「南町のこの辺だけ、空襲の火の手を辛うじて免れたのだそうです。私の父の家も焼けずに残りました。避難先から戻ったら、家の中が知らない人で溢れかえっていたそうです」

 長岡戦災資料館館長の近藤信行氏の言葉を思い出す。川を挟んだ旭町側に1本しかないのも、他は焼失したからなのかもしれない。資料館で閲覧した市民の体験記録『長岡の空襲』にも<旭町あたりの家は燃えていて、家の骨組みだけがちょうど仕掛花火の櫓が燃えるのと同じだった>という証言があった。国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている戦災概況図と照合しても、まさにこの場所が、焼失地域と残存地域の境目に合致する。

全国主要都市戦災概況図(国立公文書館 デジタルアーカイブ)をもとに筆者作図

 1945(昭和20)年8月1日。22時半から翌0時10分にかけ、米軍のB29爆撃機125機から焼夷弾が降り注がれた。1488人の市民の命が奪われ、市街地の8割が焼き尽くされた。火の海から逃れようと多くの人が川に飛び込み、命を落とした(※長岡空襲について)

 猛火の中、家族の名前を叫びながら逃げ惑う人々。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったという。私が長岡花火の夜に歩いた大手通、そして信濃川・長生橋へ向かう途中の平潟神社は最も犠牲者が多い場所だった。

「人口順で言えば、新潟市の方が上回っていたわけですが、新潟は原爆投下の候補地だったので焼夷攻撃の対象から外されて、次に人口の多かった長岡になったのです」(近藤館長)

 交通の要衝であり、軍需工場や、石油産出地であったことも一因だったと言われている。米軍が立案した原爆攻撃の実行計画では、京都・広島・新潟・小倉・長崎の5都市が投下予定として選ばれた。そして長岡には新潟市の“練習”として7月20日に模擬原子爆弾が投下されていた。


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