「カラフト?思いつくこと?何もない」(女子学生)
「思い浮かばないですね……」(男子学生)
「カラフトでしょ?」と言い、女子学生がホワイトボードに記した文字は「棒太(ボウフト)」だった──。
これは、稚内市樺太記念館の展示映像「私たちは、【カラフト】を知らない。」の冒頭のシーンである。
小誌取材班は6月下旬、日本最北端の街・北海道稚内市を訪ねた。アイヌ語で「ヤムワッカナイ(冷たい水の沢)」に由来するこの街は、東にオホーツク海、西に日本海、北に宗谷海峡を挟み、ロシア・サハリン島と向き合う「国境の街」である。
サハリンは1905(明治38)年、日露戦争後のポーツマス条約で、北緯50度以南が日本の領土(「南樺太」と呼ばれた)となった。以後、日本人によって、未開の地に多くの街々が築かれ、太平洋戦争終戦の45年までの40年間、そこは〝日本〟だった。
樺太(サハリン)の面積は約7万6400平方キロ・メートルで、世界で22番目に大きな島である。そのうち、南樺太は、北海道の半分ほどで、かつては40万人を超える人々が暮らし、農林水産業、鉱業などが発展した。森林資源(針葉樹)も豊富で、樺太には王子製紙など9つの製紙工場が建設された。
樺太庁所在地の豊原市(現・ユジノサハリンスク)はモダンな街で、文化・交通・経済の中心地であった。
下の絵は大正から昭和にかけて、数多くの旅行案内図を描いた鳥瞰図絵師・吉田初三郎の「樺太鳥瞰図」である。昭和10年代の樺太の姿がいきいきと描かれている。
よく見ると、右上には本州、北海道と樺太の間には、宗谷海峡があり、稚内港から大泊港を結ぶ「稚泊連絡船」が描かれている。JR稚内駅近くには、かつて国鉄の稚泊航路の引き込み駅として、北防波堤ドーム内に「稚内桟橋駅」があり、旅客は駅の待合室から直接タラップを渡って船に乗ることができた。この船に乗り、多くの日本人が豊かな暮らしを求めて樺太へ渡り、本土とは異なる平穏な日々を過ごしていた。

